第20回「涙骨賞」受賞論文 本賞
『生命の革新』としての限界芸術
――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに
秋田光軌氏
註
- ジョン・デューイ『経験としての芸術』栗田修訳, 晃洋書房, 2010(1934), pp.1-2
- 同上書, p.17
- 同上書, p.45
- 行安茂 編『デューイの思想形成と経験の成長過程 デューイ没後70周年記念論集』北樹出版, 2022, pp.224-226
- ジョン・デューイ『民主主義と教育』下巻 松野安男訳, 岩波書店, 1975, pp.24-25
- 同上書, p.68
- デューイ, 前掲注25, p.20
- 同上書, p.31
- 同上書, p.338
- 同上書, p.415
- 同上書, p.241
- 同上書, p.367
- 鶴見, 前掲注5, p.10
- 同上書, p.34
- 同上書, p.46
- 同上書, p.45
- 同上書, p.52
- 同上書, p.70
- 同上書, p.71
- 同上書, p.81
- 行安, 前掲注28, p.232
- そもそも「再説」で趣味の骨格の形成について語られるとき、中林悟竹の砂の上に指で文字を描くという行為は、文字が波にさらわれて消えていくことで個性を脱出し、文化をもっている人物としての共同性に目覚める可能性と合わせて言及されていた(鶴見, 前掲注7, p.72)。趣味の骨格の形成は「個人の私的な領域の基礎」であると同時に、私的領域からの離脱としての両義性をもつのである。
- 福住は企画展「21世紀の限界芸術論」を東京のギャラリーマキで開催し、福岡の繁華街の路上でハリガミマンガを勝手に連載した「ガンジ&ガラメ」、物書きだった祖父の日記を現代語に翻訳することをライフワークとする尾角朋子らを紹介してきた。福住によれば、限界芸術の革命性は、日常的な暮らしのみならず、純粋芸術と大衆芸術の内実をつくりかえることをも意味する(福住廉『今日の限界芸術』BankART1929, 2008, p.19)。彼の著作や実践は、限界芸術が「純粋芸術と大衆芸術の内実をつくりかえる」プロセスにより関心を向けていると思われるが、一方で本稿の主な関心は、限界芸術が「日常的な暮らしをつくりかえる」側にある。
- 鶴見, 前掲注7, p.80
- 同上書, pp.79-80
- 鶴見, 前掲注5, p.85。宮沢賢治『農民芸術概論綱要』からの引用。
- 同上書, p.28
- ジョン・デューイ『人類共通の信仰』栗田修訳, 晃洋書房, 2011(1934), p.117
- デューイ, 前掲注25, p.332
- 横井清『中世民衆の生活文化』上巻, 講談社, 2007(1975), p.154を参照。
- 自園が芸術家やNPOとネットワークを築けているのは、隣接して運営されている「葬式をしない寺」浄土宗應典院の力が大きい。1997年から社会実践に特化した活動を行ってきた寺院であり、これまで園との連携・協働を進めてきた。應典院については、筆者の実父である秋田光彦の『葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦』新潮社, 2011等の著作がある。なお、筆者は以前、應典院における芸術実践を網野善彦の無縁・アジール論とからめて論じた(「行為的アジールの聖性とその課題―浄土宗應典院の事例を手がかりに―」『秋田公立美術大学研究紀要 第10号』所収, 2023)。