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第20回「涙骨賞」受賞論文 本賞

『生命の革新』としての限界芸術

――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに

秋田光軌氏

こうして経験が高まっていくならば、経験は個人と物理的環境との相互作用を指すだけにとどまらない。デューイは、経験が最高レベルに達することは「自我が世界と――まわりの事物や出来事と――完全に相互浸透することを意味する3131デューイ, 前掲注25, p.20」といい、そこで起きる「恍惚とした激しい美的陶酔は、宗教家が忘我の霊的な交わりと名付ける経験によく似ている3232同上書, p.31」として、芸術と宗教的性質の関連を示唆している。これが「③我執を離れた新たな生への導き」にあたる。

芸術作品が生むコミュニオンの感じは、はっきりと宗教的性質を帯びることがある。人々のこころを一つに結びつけることは、宗教儀式が生まれる源泉である。(中略)儀式や祭礼は、みんなが祝うことによって、人びとを一つに結合する力をもっている。芸術は、この力を人生のすべての出来事や場面にまで押し広げるものである。すべての人びとを結びつける芸術のこの役割は、芸術のわれわれへの贈物であり、芸術の芸術たるしるしである。芸術が人間と自然とを結合するのは周知の事実であるが、芸術はまたすべての人間が起源と運命を共にするものであることに気づかせてくれるのである。3333同上書, p.338

自然――それは万物を体系づけた全体としての「宇宙 universe」とも述べられる3434同上書, p.415――との結びつき、すべての人間と運命をともにしていることへの気づきは、芸術作品の制作に限らず、経験が十全なものとなることによって感受されうる。『経験としての芸術』と同年に発表された『人類共通の信仰』においても、デューイは宗教と宗教的性質とを区別し、その性質は神のような超自然的存在や特定の宗教教団に属するのではなく、人間の経験それ自体が担う性質であるとする。そして「もはやエゴイズムが真実と価値の尺度でないところでは、われわれは自己のむこうにあるこの広大無辺な世界の市民となる3535同上書, p.241」のである。

本章の結論をまとめよう。ここまで確認したように、クームラズワミから抽出した三点はデューイにも通じているが、両者のあいだには異なる性格が見られた。一つめの違いは、クームラズワミが芸術を仕事においてよいものを作る技術のこととして、生まれや職業を重視したのに対し、デューイは美的経験を軸に置くことで、仕事や作品制作を含めたさまざまな営みを芸術と捉えられる視野をもっている点である。

もう一つの違いは、ヴィジョンの扱いである。クームラズワミは特定宗教の信奉者ではなかったが、彼の議論において、芸術は美の本質であり最終目的である「神のヴィジョン」へ至る手段であった。しかし、デューイにとってヴィジョンは本質としての神に属するものではなく、個々の人間の想像力がもたらすものであり、経験を美的に活気づける重要な要素であった。デューイは芸術を何かしらの本質を目的とする手段であるとは考えない。芸術の目的は「経験を〈一つの経験として〉形成すること3636同上書, p.367」以外にはなく、宗教的性質を感受してエゴイズムから離れることも、あくまで経験を高めていく過程において生じるのである。誤ってこれを外的目的と取りちがえ、芸術をその達成のための手段に貶めるならば、人々の経験は宗教的性質からいっそう遠ざかることになるだろう。

日本の文脈において限界芸術論を構想していた鶴見にとって、芸術を仕事や神に結びつけることにこだわるクームラズワミの中世的思想は、そのままでは扱いにくい部分があったように思われる。鶴見はデューイの芸術論を経由することで、クームラズワミから受けた影響を維持しつつ、芸術を仕事や神との結びつきから解き放ち、自身の考えをより柔軟に展開することに成功したのではないだろうか。次章ではここまでの議論をふまえて鶴見のテクストに立ち返り、改めて限界芸術論の内容を検討することにしたい。

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