『生命の革新』としての限界芸術
――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに
さらに、伝統的芸術はそれぞれの職分を通じて生活を豊かにする技であるだけでなく、観想的な生への手段でもあった。芸術家にはよき仕事人であることと、観想的であることの両方が求められる。クームラズワミによると、観想的であることが意味するのは、経験的なものから理想的なものへ、観察からヴィジョンへと、私たちの参照のレベルをあげることだとされているが2121Ibid., p.37、いったいどういうことなのか。
何かものを作るとき、私たちはものがそうあるべき形相(form)を直観して、作りはじめる。形相は神に由来するのであり、プラトンのイデアが現代人にとっては迷信であるとしても、やはり人は作る行いや作られたものの中に形相を見ることで、神を見ていたのである。ここで世俗的なものと聖的なものは区別されていない。つまり、芸術家は仕事を自らの責任において楽しみつつ、同時に神による形相の模倣に奉仕するのである。
「芸術は自然を外観ではなくはたらきにおいて模倣する」と言われる以上、それは既存のものと同じものを無批判に作り続けることを意味しない。しかし、個的存在としての私が、芸術において行為者の資格を持つことはないのである。芸術は決して自己表現の手段ではなく、各自の出自や性質に基づいて、形相に奉仕する匿名の人々によってなされる。芸術は「使用と楽しみという当面の目的への手段、ならびに、その本質がすべてのものの美の原因である、神のヴィジョンと等しい至福という最終目的への手段2222Ibid., p.111」であり、人間は神のヴィジョンを目の当たりにすることで、自らの心身こそが最終実体であるという執着を捨て、全体的な生と関わりをもつ「自己(self)」へと生まれ変わるのである。
ここまでがクームラズワミの芸術論の概要であり、その論点をまとめると、以下の三点になる2323同書で述べているように、クームラズワミは自身の論の正確な典拠を明らかにしていない(Ibid., p.23)が、引用されているトマス・アクィナスやマイスター・エックハルトらの芸術観をまとめた理論であることが予想される。ウンベルト・エーコは、トマス・アクィナスについての著作で「芸術の担い手には、鍛冶屋、雄弁家、詩人、画家、羊毛の毛刈り職人がいる。芸術の概念は広く、私たちが工芸や技術と呼ぶ領域も含まれる。芸術の理論とは、何よりも 仕事の理論 である」と書いている(ウンベルト・エーコ『中世の美学 トマス・アクィナスの美の思想』慶應義塾大学出版会, 和田忠彦監訳, 石田隆太・石井沙和訳, 2022, pp.207-208)。また村田純一は、エックハルトが「日々の生活に必要なさまざまな仕事に従事することが敬虔な祈りや内面への沈潜などと比較して劣っているわけではないどころか、むしろ後者よりも神に近づく道である」ことを強調した、と指摘する(村田純一『技術の哲学 古代ギリシャから現代まで』講談社, 2023(2009), p.92)。『キリスト教と 東洋の 芸術哲学』(傍点筆者)と題されてはいるが、同書における東洋芸術の事例はあくまで中世キリスト教の芸術観と一致するものとして解釈されている。別の著作(Ananda Kentish Coomaraswamy, The Transformation of Nature in Art, Dover Publications INC, 1956)ではアジアの芸術理論が主題となっているが、クームラズワミの芸術論において中世キリスト教と東洋の差異がどう考えられているのかについては、今後の研究課題のひとつとしたい。。
①芸術と仕事・生活を一体と見る発想
②現代社会の要請に対する批判精神
③我執を離れた新たな生への導き
①や②が鶴見に引き継がれていることは明白であるが、先行研究で③はこれまで見過ごされるか、不十分なかたちでしか論じられてこなかった。ここで私たちは次のような解釈の可能性を見出すことができる。鶴見が述べる「自分の人生にもっているヴィジョン」は「自分はこのような者としてこのような人生を生きたいという意思」を素朴に意味するのではなく、「個に対して執着する悪」から離れ、個的自我を「自己」へ転換することに関連しているのではないか。
とはいえ、クームラズワミの考えをそのまま当てはめるのは早計である。複数の先行研究が明らかにしているように、「芸術の発展」にはむしろジョン・デューイの直接的影響が見られる2424寺田, 前掲注9の他、佐藤光「鶴見俊輔の『ネガティブ・ケイパビリティ』―ジョン・デューイ『経験としての芸術』の影響の可能性」『超域文化科学紀要 第27号』所収, 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻, 2022 など。。次に問題になるのは、クームラズワミが鶴見の「考え方の根本になっている」のだとすれば、なぜ彼への言及が実際には最小限に留まり、デューイの芸術論が積極的に参照されているのかという点である。次章では、クームラズワミの議論から抽出した三点がデューイにも通じることを確認し、鶴見がデューイを参照した理由を考察することにしたい。