『生命の革新』としての限界芸術
――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに
5. 限界芸術論再考
鶴見は「芸術の発展」の冒頭で「芸術とは美的経験を直接的につくり出す記号である3737鶴見, 前掲注5, p.10」と定義する。広く美的経験を直接よびさますものを芸術と考えることで、芸術は特別な作品のみを指すのではなく、日常生活そのものの中に根を持つことになる。こうして限界芸術の概念を提起した後、限界芸術の捉え方は二十世紀の西洋の思想家の著作に見ることができるが、日本においても独自の発展があるとして、柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治という三人の見方が整理されていく。柳田と柳は限界芸術の研究と批評として成果を生んだが、この二人の保守主義、現状維持主義とは異なる方向から、今日から未来にかけての日本の状況に対して力となるのは宮沢だと、鶴見は宮沢をもっとも高く評価している。
しばらくその論述を追っていこう。柳田国男の民俗学研究においては、たとえば匿名の作者によってつくられる民謡が、それを歌い伝承する集団生活のあり方を反映する限界芸術である。そして、これらの限界芸術が総合的に出揃うのが宗教的行事としての祭であるが、現代の祭は演じる者と見る者とに分離し、衰えてしまった。観光客のあいだで有名になった大祭はもはやショウであり、「集団全体が主体となって、みずからの集団生活を客体としてかえりみて、祝福する3838同上書, p.34」働きを保つのは、その土地の人々だけを目当てにこっそりと行われる小祭である。そこで柳田は、小祭とそれを支える日本人の国民的信仰を復興することを提案する。
柳宗悦は、高い伝統に支えられる職人の無意識の手仕事は、個人的天才の仕事をはるかに超えると考えた。後年は仏教、とくに妙好人の信仰に注目し、「他人を批判する権利をすて、自分の個人的意志をはたらかすことのないような無心な生き方3939同上書, p.46」を、もっともすぐれた雑器を生み出すものとして重視する。一方、京都市下加茂にて柳が主導した工芸家ギルドをつくる試みは、わずか二年で失敗に終わった。鶴見はその原因について、中世的思考・生活形態を基盤とし、すぐれた個人作家をもたないギルドの成立は、この時代に困難であったと見る。また、柳は遺産としての手仕事に限定して限界芸術を捉えており、機械的生産に反対する力としてのみ評価した。鶴見は彼の批評的視点を評価しつつ、ある面で「近代以前のものにのみ固執する人4040同上書, p.45」であったと述べる。
柳田と柳はともに「①芸術と仕事・生活を一体と見る発想」「②現代社会の要請に対する批判精神」「③我執を離れた新たな生への導き」を備えてはいるが、神や仕事と結びついた中世的芸術について語るクームラズワミに近い立場である。柳田は神社を中心とした信仰と宗教的行事としての小祭に、柳は仏教信仰と工芸家ギルドや手仕事に固執し、それぞれ復古的なかたちで美的経験を見出した。
それに対して、宮沢賢治はデューイ的な立場である。宮沢にとっては「状況の内部のあらゆる事物が、新しい仕方でとらえられ、価値づけられることをとおして、芸術の素材となる4141同上書, p.52」のであり、修学旅行、農業、詩、童話、歌曲、あるいは人生そのものが、多様な限界芸術の実作となる。周知のとおり彼は法華経の信仰者ではあるが、仏教やそれに類するものに固執することなく、美的経験を動的に展開させていくのである。
鶴見は、美的経験を直接呼びさますものとしての芸術は、宮沢において「それぞれの個人が自分の本来の要求にそうて、状況を変革してゆく行為4242同上書, p.70」としてあり、そこには想像力とヴィジョンが伴うと述べている。
こうして宮沢賢治の芸術観には想像と行動の二つのモメントがあるが、どれか一方の極において芸術が純粋に成立することはありにくい。芸術とは本質的に、ヴィジョンによって明るくされた行動なのである。4343同上書, p.71
人生の一こま(行動)を芸術に高めるものは、宇宙全体についてのヴィジョンである4444同上書, p.81。