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『生命の革新』としての限界芸術

――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに

秋田光軌氏

またデューイによれば、伝統がなすべきことについて外側から与えられる慣習にすぎないなら、それは伝統への盲従であり経験の形成を妨げる要因であるが、独創的な見方や創造的な表現には、文化の流れがその人の経験の構造に溶け込んでいることが欠かせない5353デューイ, 前掲注25, p.332。柳宗悦や宮沢賢治に限らず、仏教文化が死生観を中心に日本人に影響を与えてきたのは歴史的事実であり、現在では人々の意識に上ることは少ないとしても、葬式や墓参りといった習慣がある程度維持されている以上、その潜在的影響はいまだ続いていると考えてよい。ならば、仏教によって長い間培われてきたヴィジョンを、布教伝道としてではなく限界芸術的な文脈で、より広く社会に還元するという発想が有効なのではないか。特定宗派への信仰には繋がらなくとも、それが現実に対する想像力を喚起する契機にならないか。

たとえば、世親『浄土論』に見られる「遊戯神通」には、悟りの境地に至った仏が他者を救うことを遊びとして楽しむ、という意がある5454横井清『中世民衆の生活文化』上巻, 講談社, 2007(1975), p.154を参照。。われわれは決して仏になりきれない「修羅」ではあるが、ルーティン化した世界の区切り方を揺るがすこのようなヴィジョンを手がかりに、自分の力で仏に向かっての道筋をきりひらこうとする中にも、それぞれの限界芸術が開発されていくはずである。むろん仏教的ヴィジョンを解説するだけでなく、各個人がそれを自らの関心や生活状況に結びつけ、ときに葛藤しながら、変革を生みだすのを支える場の創出こそが肝要である。仏教の基本的教理や、念仏等の身体技法をふまえる必要もあるだろう。

筆者が仏教寺院を母体とする幼稚園の経営に携わっていることは冒頭で述べた。自園では仏教教育を理念として日頃から仏教的ヴィジョンを伝えているが、子どもだけでなく保護者や保育者をも仏教教育の対象と位置づけており、仏を通じて互いに学びつづけることのできる場を目指している。真剣に念仏を唱える子どもの姿を見て、親が生まれてはじめて仏前に手を合わせる、というような影響も生じている。

また、現在の幼稚園教育要領によって、よりよい社会を創るという理念を、家族や地域の人々をはじめとする社会の担い手と共有し、教育において協働をはかる「社会に開かれた教育課程」が推進されつつある。すでに自園では、保護者、保育者、僧侶はもちろんのこと、研究者、芸術家、NPOらと関係を築いているが、よりよい社会を未来に創るのに何ができるのか、仏教的ヴィジョンを参考に多様なプレイヤーが語り合う場を作っていくことにも意義があると思われる5555自園が芸術家やNPOとネットワークを築けているのは、隣接して運営されている「葬式をしない寺」浄土宗應典院の力が大きい。1997年から社会実践に特化した活動を行ってきた寺院であり、これまで園との連携・協働を進めてきた。應典院については、筆者の実父である秋田光彦の『葬式をしない寺―大阪・應典院の挑戦』新潮社, 2011等の著作がある。なお、筆者は以前、應典院における芸術実践を網野善彦の無縁・アジール論とからめて論じた(「行為的アジールの聖性とその課題―浄土宗應典院の事例を手がかりに―」『秋田公立美術大学研究紀要 第10号』所収, 2023)。

特定宗派に所属する僧侶と檀信徒によって信仰され、宗門系大学で行われる研究と関わりをもつ仏教を「純粋仏教」と、美術展、漫画、テレビドラマ等によって親しまれる仏教を「大衆仏教」と仮に呼ぶならば、仏教に備わる想像力とヴィジョンに基づいて、各個人が生活に意味を与え、周囲の状況を変革する実践を「限界仏教」と呼ぶことができる。「限界仏教」は他の二つと重なり合いつつ、これまでも他の二つを生み出してきた根本的な地盤であり、未来に向けてその重要性をますます高めていくだろう。

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