『生命の革新』としての限界芸術
――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに
吉田達は、鶴見の「自分の人生にもっているヴィジョン」とは「自分はこのような者としてこのような人生を生きたいという意思」のことであるとし、その意思を限界芸術として表現することで、大衆社会において自由のなりたつ場が生じうると解釈する。また吉田は、それぞれの仕事の中で「自分なりの生き方をつらぬく姿勢」を大切にすることが、新たな限界芸術を組織することにつながる可能性について述べている1010吉田, 前掲注6, p.27。
一方、林三博は「芸術の発展」での宮沢賢治の引用に触れ、鶴見が「集団社会宇宙」という広がりのなかで限界芸術を考察したことを指摘しており、先の二者とは異なる見解を示している。しかし後年の「再説」に至って、限界芸術は「集団社会宇宙」の広がりを断念し、個人のなかでその不定形性を保存することに活路をみいだしたという1111林三博「日常的思想とその限界―鶴見俊輔による大衆文化論の軌跡―」『年報社会学論集 第23号』所収, 関東社会学会, 2010, p.136。「集団社会宇宙」の断念は、時代的な変容の中で「『限界芸術』がデザインの一領域として部分化されていこうとしている1212同上書, p.137」ことの反映である。
三者の立場は決して同じではないが、限界芸術を個人の私的領域に関するものとする点で、共通した方向性を示している。たしかに、鶴見は共同性を失った個人が趣味の骨格をつくる必要性について語っていた。だがここで興味深いのは、これらの解釈に矛盾するテクストも「再説」には含まれているという事実である。引用しよう。
空が笑いかけているような感じ、牛も馬も友だちだと感じる一体感のなかに、生きていくことの秘密がある。そして、宇宙のダンスにわれわれが参加することのなかに喜びがあり、自分が個として滅びることが別に何でもなくなってくる。それが生きていることの目的ではないか。1313鶴見, 前掲注7, p.77
自分がデザインしたように生きるというのは、単に自分の個性を主張するというような十九世紀的な意味ではなくて、個性というのもたいしたことはないという立場をとる。宇宙のダンスに参加する仕方が問題で、自分は個として生きているけど、それが滅びたってそれが何だ、キリスト教であっても、仏教、ヒンズー教、アメリカインド人でも何でもかまわないんだ。とにかく近代の文明によって形成された、個に対して執着する悪からいっさい離れていく。1414同上書, p.78
ここではまるで個人の私的領域が否定されているかのようであり、先行研究の解釈はこれらのテクストにいっさい触れないことで成立している。とはいえ、限界芸術をめぐって生じるこの矛盾について、彼らの読解にのみ責任を帰すのも酷である。なぜなら引用箇所は、イギリスの詩人レックスロスが訪日した際に鶴見が聞いた、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダーの説として述べられており、非常に込み入った言及となっているからである。さらに、鶴見はスナイダーの説に明らかに好意的な評価を示しているが、自説との関係について明確な説明を加えていないため、読者に唐突な印象を与える結果となっている。つまり「再説」の中だけで同箇所を整合的に理解するのは困難であり、鶴見の他の仕事や、彼に影響を与えた仕事を交えて再解釈する作業が必要となるのである1515熊倉敬聡は、同じ引用箇所のみをもって限界芸術が「宇宙論的な営み」であると主張するが、この箇所がスナイダーの説であることに触れていないため、やや性急な論の運びであると言わざるをえない(熊倉敬聡『GEIDO論』春秋社, 2021, pp.48-49)。。
最晩年の著作『かくれ佛教』で、鶴見はスナイダーの立場を「仏教アナキズム1616「仏教アナキズム」については「法は受け止めるが、自分の信念は別のところから出るので、国の法律から受け取るのではないということ」とだけ説明されている(鶴見俊輔『かくれ佛教』ダイヤモンド社, 2010, pp.17-18)。『かくれ佛教』という書名に表れているように、宗教への信仰には慎重に距離を保ちつつ、仏教のアナキズム的性格と立場を同じくするということだろう。」と呼び、自分本来の思想と融和性をもっているので付き合いがずっとあったのだと語っている。そして、鶴見自身が「仏教アナキズム」に至った影響関係として、ブッダ、法然、親鸞らとともに名前をあげるのが、十代の時にアメリカで接したクームラズワミであり、彼の芸術論が「私の考え方の根本になっている1717鶴見,前掲注16, pp.16-17」とまで述べているのである。「再説」の引用箇所は、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、アメリカ先住民に触れていたが、これらは全てクームラズワミの著述対象であり、鶴見がここで彼を意識していた可能性は高い。クームラズワミがスナイダーと鶴見の融和性の一端を担う存在であるならば、彼の芸術論が鶴見に与えた影響を紐解くことは、これまでの解釈に新たな視座を加えると考えられる。