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『生命の革新』としての限界芸術

――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに

秋田光軌氏

3. クームラズワミの芸術論

限界芸術の着想に至った影響関係としても、鶴見が「一九三九年にその仏陀伝を読み一度だけ東洋芸術についての講演をきいたことのあるクームラズワミ1818鶴見俊輔「著者自身による解説」前掲注5, p.446。クームラズワミの他に、C・S・パース、ウィリアム・ジェイムズ、G・H・ミード、ジョン・デューイ、ハヴェロック・エリス、ラビンドラナート・タゴール、ハーバート・リード、エリック・ギル、ピョートル・クロポトキンといった名前が挙げられており、限界芸術概念が実に多様な影響下で育まれたことがわかるが、本稿はクームラズワミとデューイの二人が最重要だという立場である。」を時系列の冒頭に置いていることから、彼の存在は限界芸術の根幹に影響を与えたと予想される。しかし、「芸術の発展」で引用される一節「すべての芸術家が特別の人間なのではない。それぞれの人間が特別の芸術家なのである1919鶴見, 前掲注5, p.16」を例外として、これまで彼の芸術論についてはほとんど研究されてこなかった。管見の及ぶかぎり、鶴見とクームラズワミの思想上の関係を考察した先行研究は存在しない。

1877年、クームラズワミはインド人の父とイギリス人の母の間にスリランカで生まれた。ロンドン大学を卒業後、1917年にアメリカに渡り、ボストン美術館のインド・イスラム部門の責任者を務めた。美術史家、哲学者、宗教学者として、仏教、ヒンドゥー教、中世キリスト教といった宗教、神話、インド美術等、広範な著作を残した人物であり、英語圏では今なお参照されることも多い。鶴見が聞いた講演内容そのものは把握できない。しかし、先の一節と同趣旨のテクストが収められた『キリスト教と東洋の芸術哲学』は、鶴見の思想の根幹を知る上で重要なものであろう。以下では、同書を参考にクームラズワミの芸術論の概要をまとめ、限界芸術に影響を与えたと思われる論点を整理したい。

同書におけるクームラズワミの基本的な立場は、当時のアメリカの芸術に対する批判として、中世キリスト教や東洋における伝統的芸術がどのような営みであったかを示し、芸術および社会に対する新たな理解と実践をひらこうとするものである。彼によれば、現在人々は仕事と余暇に区分された時間を生きており、レジャーにおいて心地よい美的感覚を得られる作品のことを芸術であると理解している。また、芸術家とは自己を表現する特別な才能をもった神秘的存在であり、単なる仕事人は表現する自己をもたない盲従的存在であると見なされる。つまり、どんな場合にも芸術と仕事が両立することはないということである。

一方、中世における芸術は美的な作品のことではなく、大工、画家、法律家、農家、司祭といった仕事人が、それぞれの職分においてよいものを作る技術(art)である。芸術は、生活の必要に応じてより豊かな「使用と楽しみ」をかたちづくる技であり、匿名の人々の仕事の中に存在するものであった。ただし、怠けている者が評価されるわけではない。自らに与えられた使命(vocation)として仕事が本来あるべき姿になっているのか、責任を持って取り組みを続ける人間が芸術家と呼ばれたのである。

我々が文化の幻想と呼ぶものの基本的な間違いは、芸術は特別な種類の人間によってなされる何かであり、とくに天才と呼ばれる人によってなされるものだとする思い込みである。全く反対に、芸術はシンプルにものを作る正しい方法のこと(交響曲であろうと飛行機であろうと)であるという、ノーマルで人間的な視点がある。(中略)芸術家は特別な人間であるのではなく、単なる怠け者やパラサイトではない全ての人は、必然的に特別な芸術家なのだ。彼らは自身の気質や訓練にしたがって、あれやこれやのものの制作や整理に熟練し、よく満足しているのである。2020Ananda Kentish Coomaraswamy, Christian and Oriental Philosophy of Art, Dover Publications INC, 2011(1956), p.98. なお、翻訳は引用者によるものである。

現在の我々の親しんでいる芸術観とは異なるこうした観点から、クームラズワミは現代社会の「利益のための製造」を批判する。金銭を稼ぐために大量の商品が作られ、本当に必要があるかどうかは関係なく、人々が商品を好むように広告が仕掛けられる。こうした状況は芸術業界においても例外ではない。彼らにとって仕事は使命ではなく「job」であり、彼らが欲しているのは期待される利益の十分なシェアを守ることだけである。金儲けに最大の関心が置かれており、仕事それ自体に対する無関心が生じているのだ。言い換えれば、彼らは雇用されて行う全てのことにおいて、大きな喜びを得る機会、つまり芸術家になる機会を奪われているのである。

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