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『生命の革新』としての限界芸術

――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに

秋田光軌氏

しかし、限界芸術はおそらく鶴見の仕事で最も広く受容されている概念でありながら、提唱されてから半世紀以上が経過した今もなお、そのポテンシャルが十分に理解されているとは言えない。吉田達は、鶴見が限界芸術の提唱によって目指したのは、芸術の価値序列をゆるがす程度のものではないと指摘し、「個々の人間が状況のもたらすさまざまな圧力――もろもろの権力や権威、大衆社会のもたらす無力感など――に屈することなく自由に生きる場を確保するための方途として限界芸術はとらえられる必要がある66吉田達「鶴見俊輔の『限界芸術』概念を巡って―鶴見俊輔論のための素描―」『中央大学論集 第33号』所収, 中央大学, 2012, p31」と述べる。吉田のこの主張に筆者も共感するが、同時に先行研究においてその意味は深く捉えられていないと考える。本稿のねらいは、限界芸術が自己と世界や他者とを隔てる境界を溶解し、全面的な出会いをもたらす「生命の革新」であり、だからこそ「自由に生きる場を確保するための方途」になりえると明らかにすることである。

本稿では、限界芸術の着想にとくに重大な影響を与えたと思われる人物として、アナンダ・K・クームラズワミ(1877-1947)とジョン・デューイ(1859-1952)の芸術論を取り上げる。先行研究で正当に扱われていないクームラズワミを起点としながら、「芸術の発展」で参照されているデューイ、そして鶴見のテクストを改めて読解することで、「生命の革新」としての限界芸術を考察することができる。その際、この三者が共通して使用する概念である「ヴィジョン」に注目することになるだろう。

以降の構成は次の通りである。2章で鶴見の講義録「限界芸術論再説」を取り上げ、先行研究の問題点を整理する。3章でクームラズワミの芸術論について論じ、若年の鶴見が影響を受けたと思われる論点を確認する。4章でデューイの芸術論について論じ、それを限界芸術論に参照した鶴見の意図を考察する。5章でここまでの議論をふまえて鶴見のテクストに立ち戻り、改めて限界芸術の内実について述べる。最後に6章で、筆者の立場から「生命の革新」としての限界芸術を現代に展開する可能性を考える。

2. 限界芸術をめぐる矛盾

鶴見は1967年10月20日付の講義録「限界芸術論再説」(以下「再説」と表記)で、人々が互いについて何も知らず、関心を持たない大衆社会の成立が現代の病根であると述べた。そこにおいて人々は、砂の一粒一粒がそうであるように何ら必然的な関係をもたない。そのような社会では、自らが意見を持ったところでそれが他者に関係することも見込めないのであるから、「公の問題に対して自分はほとんど影響を持たない」という不安と無力感を抱えることになる。こうした状況に非常に小さいところからアプローチする考え方として、限界芸術が語られるのである。

まず鶴見は会津八一の書論集に触れて、明治時代の書家である中林悟竹が砂浜のうえで書の練習をした逸話を紹介する。砂の上に指で文字を書くという行為は、どんな条件のもとでも人間が自分で設計・デザインできる生活の領域であり、「自分のなかのデザインの感覚を鍛えるということは、服装に対しても家に対しても、家の中の物の配置に対しても、その趣味の骨格をつくっていく77鶴見俊輔「限界芸術論再説」『現代デザイン講座=4 デザインの領域』所収, 風土社, 1969, p.72」ことにつながる。そして趣味の骨格の形成は、人間の歴史の中で大きくなってきた「機械化された部分」や「権力の中枢部によって決定されてしまう部分」を拒絶するものとして考えられている。

それ[限界芸術]をいかにして自覚的に自分のものにしていくか、つまりその限界芸術を通して自分の人生にもっているビジョン(原文ママ)をどういうふうに表現するかということが問題です。それこそ、われわれが大衆社会状況においてもちうる自由の領域であり、デザインの可能な領域なんです。(中略)限界芸術を身につけて、それによって自分はこう生きたいんだ、政府がどんな生活を押しつけても、それは自分の好きなことではないと拒絶する姿勢を、限界芸術という仕方で表現することができるわけです。88同上書, pp.75-76

次に、先行研究で「再説」がどのように解釈されているかを見ていこう。寺田征也は、それ以前の論に比べて「再説」では個が強調されていると理解する。1960年の「芸術の発展」では、民衆という集合のなかの文化や生活を元に議論が展開されていたが、他者との共同性を前提にできないのが大衆社会である以上、ここでは「個人の私的な領域の基礎」としての限界芸術が主張されているという99寺田征也「鶴見俊輔『限界芸術』論の再検討」『社会学年報 第45号』所収, 東北社会学会, 2016, pp.69-70

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