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『生命の革新』としての限界芸術

――クームラズワミとデューイの『ヴィジョン』を手がかりに

秋田光軌氏

6. 限界仏教――「生命の革新」に向けて――

美術評論家の福住廉が指摘するように、鶴見があげる限界芸術の具体例の多くは時代的に古いものであり、「今日の限界芸術」を考えることは課題として残されている4747福住は企画展「21世紀の限界芸術論」を東京のギャラリーマキで開催し、福岡の繁華街の路上でハリガミマンガを勝手に連載した「ガンジ&ガラメ」、物書きだった祖父の日記を現代語に翻訳することをライフワークとする尾角朋子らを紹介してきた。福住によれば、限界芸術の革命性は、日常的な暮らしのみならず、純粋芸術と大衆芸術の内実をつくりかえることをも意味する(福住廉『今日の限界芸術』BankART1929, 2008, p.19)。彼の著作や実践は、限界芸術が「純粋芸術と大衆芸術の内実をつくりかえる」プロセスにより関心を向けていると思われるが、一方で本稿の主な関心は、限界芸術が「日常的な暮らしをつくりかえる」側にある。。次の「再説」の記述は参考になるだろう。

ゲーテの『ファウスト』のなかに「すべてのことが自分にとって象徴的なものになった」という台詞が出てくる。つまり、大工をやっても銀行の金勘定をやっても何だっていいんですね。それにある意味をこめて、自分のビジョン(原文ママ)を表現してゆこうというような立場に立つ時、自分が発揮しうる実にさまざまな限界芸術的な要素を確認し組織し開発する人間になるってことがある。そうしたわれわれの目標が、同時代の流れをつくっていく。それと結びつくような芸術作品が生まれ、またそれに見合うような都市の形が生まれ、生活の形態が生まれる。4848鶴見, 前掲注7, p.80

どんな職業につくとしても、どんな状況の中にいるとしても、重要なのは象徴的なものとしてすべての物事を見つめ、自らの行いにおける表現力を高めていくことである。想像力をはたらかせて、自分の本来の要求を現実の状況に結びつけ、変革していくこと。それを自己目的的に進めていくことが、各自の人生における限界芸術の実作なのである。

一方、鶴見は大衆社会の傾向として、創造性の追求が個への執着に向かうことがあると述べている。つまり、人の考えなかったことを考えだして、それを競争や金儲けの手段にしてしまうということである4949同上書, pp.79-80。その場合、人は私的利潤を重視する経済制度に駆動されているのであり、たとえ本人が世間に反抗しているつもりだとしても、社会の要請に対する批判性を持ちえない。個への執着は、独創的な仕事や芸術作品の制作を、いつの間にか富や権威を得るための手段に変え、さらには保身のために生活の「機械化された部分」や「権力の中枢部によって決定されてしまう部分」に追従する余地を生むだろう。

個への執着は、自己と世界や他者とを隔てる「境界」への執着と言い換えることもできる。宮沢が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない5050鶴見, 前掲注5, p.85。宮沢賢治『農民芸術概論綱要』からの引用。」と書くことができたのは、彼がこうした境界をはるかに越えるヴィジョンをもって、世界や他者に出会っていることの証左である。限界芸術は「修羅」としての個にはじまるが、個への執着から離れたデクノボーへの道筋をきりひらこうとするからこそ、大衆社会状況のもたらす圧力に屈することなく、自由に生きる場を確保する方途となりえるのだ。

限界芸術とは、自己と世界や他者とを隔てる境界を溶解し、全面的に世界や他者と出会うことを可能にする「生命の革新」の、非常に小さいところからのアプローチである。冒頭で触れたように、矢野は遊びに全身全霊で入り込む子どもの姿や、神聖な場所としての幼稚園にそれを見出し、現代の状況に対しては、生命に触れる技法を伝達する保育者の役割に期待をかけていた。鶴見もまた「すべての子供は起きているあいだじゅう芸術家である5151同上書, p.28」と述べているが、彼は子どもや幼稚園にとくに固執することなく、「生命の革新」を「芸術家ではないひとりひとりの個人」へひらいたのである。

しかし、二十一世紀というこの時代は、想像力をはたらかせて本稿の議論を現実に結びつけることを困難にする。日常生活の行動の多くはある目的に道具的に奉仕するためになされ、過程それ自体は価値を持たない手段として軽視される。また、想像力はエンターテインメントに外注されて、気晴らしにはなっても現実の営為に結びつかない「空想」と化している。宮沢のことばを借りて「世界に対する大なる希願をまず起こせ」と叫ぶだけでは、この状況の変革に至ることはないだろう。デューイは教育や産業への働きかけに生涯取り組み、鶴見はデモや社会運動を通じて変革への姿勢を示し続けた。本稿の最後に、筆者の立場から考えられる試みについて言及しておこう。

それは宗教――筆者の場合であれば仏教――において培われてきたヴィジョンを活用することである。先に一部触れたように、デューイは既存の教会のあり方を厳しく批判し、宗教的性質は神のような超自然的存在や特定の宗教教団に属するのではなく、人間の経験それ自体が担う性質であるとした。だが、彼は宗教の価値を完全に否定したのではない。経験が担う宗教的性質の可能性に教会が目を向けるならば、むしろ教会の生命力は回復されるだろうと書いたのだ5252ジョン・デューイ『人類共通の信仰』栗田修訳, 晃洋書房, 2011(1934), p.117

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