福来友吉の神秘世界 ― 千里眼事件その後(1/2ページ)
高野山学園顧問・京都教育大名誉教授 岡本正志氏
2011年の東日本大震災では1万8千人もの人々が亡くなったが、震災後数カ月経ってから、多くの人が霊体験をしたと報告されている(例えば奥野修司『魂でもいいから、そばにいて』、新潮社、リチャード・L・パリー『津波の霊たち』、早川書房など)。
19~20世紀初頭にかけて、欧米ではこうした霊との遭遇を真面目に追究する研究者の一群がいた。哲学や心理学、自然科学の研究者など、ノーベル賞受賞者を含む著名な学者が関わったことでも注目される。
近代スピリチュアリズムの勃興と言われるこの動向は、時間をおかずにわが国にも訪れ、一種のブームを引き起こす。そうした中に、密封された容器に入れられた書を読み取る「千里眼」と呼ばれる女性が登場する。御船千鶴子や長尾郁子が代表的な霊能者であり、その実験に深く関わったのが東京帝国大助教授の福来友吉であった。
一口に心霊現象と言っても、霊が音を出したり、物を動かしたりする子供じみたものから、霊媒を通して亡くなった霊とコミュニケーションをとるものなど、その内容は多種多様である。福来が研究しようとしたのは、透視や念写といういわゆる超能力であった。透視は密封された容器内を読み取る能力であり、念写はカメラを使わず写真乾板にイメージを写し込むものだ。従来の物理学理論ではありえないことであるから、物理学者の関心も高く、山川健次郎をはじめとする物理学者が実験に参加して真偽を明らかにしたいと考えた。こうして1911(明治44)年に物理学者立ち会いの上での実験を行おうとするが不首尾に終わる。
物理学者が関わった実験ではトラブルが生じたり、霊能者側の拒絶にあったりして完全な検証ができなかったのである。したがって、彼女らの能力に懐疑的な見方が生じ、露骨に詐欺だと述べた者も現れた。その最中、御船千鶴子の自殺や長尾郁子の突然死という衝撃的な結末も加わり、歴史上有名な事件として記憶されることとなった。いわゆる「千里眼事件」である。
福来は、二人の能力は事実だという主張を貫くが、東大内の雰囲気はそれを許さぬものであったようで、辞職に追い込まれた。13(大正2)年10月に東大を休職、15(大正4)年10月に退職となったのである。これらのことは、当時のマスコミをも騒がせたので良く知られているが、東大退職後のことについてはあまり知られていないので紹介したい。
東大を退職後、福来は高野山にて密教の修行(四度加行)を行い、19(大正8)年には四国巡礼にも参加している。『四国巡拝の動機と其の感想』(非売品)という小冊子を高野山讃岐別院から出版した。その中で、祈りや宗教体験の重要性を強く主張して、体験もしない宗教学者による研究の虚偽性を指摘している。自ら透視や念写の体験をしたことの自負がこうした主張の背後にあるように思われる。
やがて、大阪の宣真高等女学校の初代校長となり、26(大正15)年に高野山大の心理学担当教授となる。宣真高等女学校時代には、生徒に評判の名校長であった。福来が作詞した女学校の校歌は今でも歌い継がれている。しかし、やがて理事会と意見対立して辞職する。その際、生徒たちが校長退職に反対してストライキを行ったという逸話も残されている(『宣真五十年史』宣真学園、71年)。