道元が基づいた性起思想(1/2ページ)
駒澤大名誉教授 石井公成氏
1980年代後半から90年代にかけて、駒澤大学仏教学部を起点とする「批判仏教」が盛んとなった。発端は袴谷憲昭教授が86年3月に「道元理解の決定的視点」と題する論文を発表したことだ。この論文は、道元は本覚思想を生涯にわたって批判し続けたのであって、これこそが道元研究の決定的視点だ、と断定していた。
さらに、その年の6月に開催された印度学仏教学会の研究大会において、袴谷氏の後輩かつ学問的な盟友であった松本史朗講師が、「如来蔵思想は仏教にあらず」という衝撃的な題名の発表をおこなった。この発表は論文化され、内外の学界に大きな衝撃を与えた。
如来蔵思想は、命あるものはすべて仏の智恵を具えているとする説だ。それが日本で独自の展開をした本覚思想では、人はもともと仏であって、目の前の事象はそのまま悟りの世界だと説くまでに至った。この本覚思想は、平安時代半ば以後は日本仏教の基調となり、文学や芸能などにおいても大きな影響を及ぼした。
その本覚思想の重要さを指摘し、道元など鎌倉仏教の祖師たちの基盤となったのは本覚思想だ、と論じたのは、東京帝国大学の講師だった島地大等が1926年に発表した論文、「日本古天台研究の必要を論ず」だった。以後、この主張に賛成する研究者と反対する研究者の論争が長いこと続いてきたが、これを一気に熱く激しい論争にしたのが、袴谷・松本両氏の主張だったのだ。
むろん、両氏の主張に対しては反論がなされ、両氏がそれを受けて主張を変更した部分もある。この論争には弊害もあったが、これによってインドや中国の如来蔵思想、日本の本覚思想、また道元の思想がこれまで以上に明らかになったことは疑いない。
ただ、道元が本覚思想を批判したのかという点については、明確な結論は出なかった。道元は、本覚思想の本場である比叡山で学んだため、その影響も初期には色濃く残っており、次第に批判を強めていき、特に晩年はその傾向が強くなったものの、最後まで本覚思想から完全に離れることはなかった、というのが現在の多くの研究者の見解だ。そうなると、本覚思想の影響を受けながら本覚思想を批判したのか、ということになる。
そうした状況の中で、筆者が着目し、昨年、「道元をインド以来の仏教史に位置づける」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第56号)、「『正法眼蔵』の基本構造―『法華経』と『華厳経』の役割に注意して―」(『駒澤大学禅研究所年報』第35号)で着目したのが、『華厳経』の性起品が説く性起思想だ。
性起品はインドでは単行経典として早くから流布しており、如来蔵説や仏性説に影響を与えたことが知られている。その特徴は、如来の智慧はすべての命あるものに浸透しているものの、命あるものは煩悩に蔽われていてそのことに気付かないため、如来は教えを説いてそのことを命あるものたちに知らせ、彼らを如来と等しい存在とする、という点だ。
つまり、如来蔵説・仏性説では、命あるものの身体の中に煩悩に覆われた形で仏の智慧がある、という点を強調するのに対して、性起思想では、如来の側に力点があるのだ。そこでは、如来の智慧が浸透している命あるものたちに如来が働き掛けて如来と等しいものとし、如来となった彼らがさらに……、という循環が重視される。
中国華厳宗の実質的な開祖である智儼(602~668)は、『華厳経』の注釈である『捜玄記』で性起品を解釈する際、「性起」の範囲は、最初の「発心」から、修行を経て「大菩提・大涅槃・流通舎利に至るまで」だ、と述べていた。
「流通舎利に至るまで」とは、仏舎利が各地に運ばれて塔が建てられるまで、という意味だ。つまり、仏舎利を納めた塔が建てられ、それを人々が礼拝し、自分もそのような仏となりたいと願って「発心」し、修行し、菩提を得て、涅槃し……という流れが繰り返されるのだ。というより、この循環を続けてゆくことが大事となる。