「浄土宗の中に聖道門と浄土門がある」(1/2ページ)
仁愛大学長 田代俊孝氏
浄土宗開宗850年をむかえて、「浄土宗」の意味を改めて考えてみたい。近時、本紙にも「宗」について興味深い論考が載せられている。
中世において、宗とは今日のような宗派や教団をさす意味ではなかった。宗とは釈尊の教えに帰着する自身(万人)の救いの旨(すじ)道であって、自身の仏教観にたった教相判釈(教判)に基づくものである。そして、「自身の救いは唯この道一つ」という絶対性をもつ。
法然(1133~1212)は、『選択集』「教相章」に道綽(562~645)によって聖道・浄土の二門を立てて=表Ⓐ=、捨聖帰浄を述べる。従来、この解釈は、仏教を相対的に聖道門と浄土門に分類し、大聖(釈尊)を去ること遥遠なること、理深く解微なることの二由によって、今時難証として二者択一をせまるものであると理解されてきた。すなわち、聖道門と浄土門は並立し、相対的に位置づける見方である。
しかし、思えばその解釈は聖道門とそれを成就できなかった衆生を無縁の者として切り捨てる論理である。改めて法然の仏教観を確認してみたい。
法然の『選択集』「教相章」では、まず有相宗、無相宗、華厳宗、法華宗、真言宗の五宗と浄土宗をあげ、「今此の浄土宗は若し道綽禅師の意に依らば、二門を立てて一切を摂す」という。そして「但し諸宗の立教は正しく今の意に非ず。且く浄土宗に就いて略して二門を明かさば、一には聖道門、二には浄土門なり」と、「浄土宗に就いて」二門があると述べる。
そして、聖道門とは大乗、小乗。大乗の中に顕密・権実の歴劫迂廻の行。すなわち今においては真言・仏心(禅)・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論であるとする。小乗は声聞・縁覚の断惑証理、入聖得果の道で、今、倶舎・成実・諸部の律宗を摂すという。
ここで注意すべきは、「浄土宗に就いて略して二門を明かさば」といい、浄土宗の中に二門ありと言っていることである。浄土宗の中に聖道門があるとはいかなる意味か。
法然は、「凡そ此の『集』の中に聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てゝ、浄土門に入らしめんが為なり」(「教相章」)と示す。本来、捨てられる聖道門は「捨てられるため」に、入らしめられる浄土門は「入らしめるため」に説かれているのである。単なる二者択一ではなく、それぞれに意味があるのである。従って、このことは単純に一方を否定して、他方を肯定するということではない。
善導(613~81)は『観経疏』で『観経』流通分の「汝好持是語…」という念仏を勧める文に注目して「上来定散両門之益を説くと雖も、仏の本願の意を望まんには衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしめるに在り」(「散善義」)という。
法然は『選択集』「三輩章」でそれを根拠に三輩共に上の本願に依るが故に、「一向専念無量寿仏」と述べる。そして、『観経』に縷々説かれてきた定散両門は廃され、弘願念仏のみが「望仏本願」ということにおいて真実の行との善導の意を相承する。
ところで、今ここで廃される諸行にはどんな意味があるのだろうか。
「謂く諸行は廃の為に而も説く、念仏は立の為に而も説く」(「三輩章」)