《浄土宗開宗850年⑤》本願を説く人に遇う、そこに聞き開かれる仏道(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所所員 難波教行氏
1175年春、親鸞の師・法然は、善導『観経疏』の「一心専念弥陀名号」から始まる一文によって、余行をすてて念仏に帰した。現在、浄土宗教団ではこの『観経疏』の文を「開宗の文」と呼び、法然回心の年を開宗の年と定めており、本年が850年目にあたる。
開宗(あるいは立教開宗)の年時については、その他にも法然の主著『選択本願念仏集』(以下、『選択集』)撰述時とする説など、幾つか見解が出されてきた。今、その諸見解に深く立ち入ることは避けるが、いずれにしても、法然が浄土宗を開顕した意義を考えることは、親鸞を宗祖と仰ぐ真宗門徒にとっても重要である。
親鸞の言葉に導かれて浄土宗開宗について考える時、まずもって確かめなければならないことがある。それは、浄土宗を開いたのが法然であり、浄土真宗を開いたのが親鸞であるという、長きにわたって高校の日本史や倫理の教科書等に示されてきた一般的な見方は、必ずしも適切ではないということである。
昨年、真宗教団において、親鸞の誕生850年に併せて立教開宗800年を慶讃する法要が勤まるにあたっても度々言及されてきたことであるが、「真宗の教証、片州に興す」(『教行信証』行巻「正信偈」)、「真宗興隆の大祖源空法師」(同、化身土巻)、「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ」(『高僧和讃』源空讃)といった言葉に明らかな通り、親鸞にとっては法然こそが浄土真宗を開いた人物(祖)であり、最も具体的に出遇った諸仏であった。
と同時に、先に引いた「正信偈」の続きに「選択本願、悪世に弘む」とあることや、和讃の続きに「選択本願のべたまう」と詠われていることに注意するなら、親鸞は法然を“本願を説いた仏者”と受けとめていたと言わなければならない。
そのことはまた、親鸞が法然と値遇した29歳の出来事を「然るに、愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(化身土巻)と述べていることからもうかがわれる。親鸞にとって法然は、目の当たりに本願を説く存在であり、その教えを聞いた親鸞に「雑行を棄てて本願に帰す」と表現される翻りをもたらしたのである。
そもそも本願との値遇は、浄土宗開宗の意義を考える上で、法然においても外すことができない。
冒頭に言及した所謂「開宗の文」では、念仏が往生の業である根拠が「順彼仏願故(彼の仏願に順ずる)」という一点において確かめられている。また、『選択集』全体を凝縮したと言われる「三選の文(略選択)」では、念仏の選びの根拠が、やはり「仏の本願に依るが故に」と示されている。
このように法然は、浄土宗を立てる端緒と言うべき回心時においても、浄土宗を体系的にあらわした『選択集』においても、仏の本願を根拠としている。すなわち浄土宗の開宗とは、本願の仏道の開顕という意味をもつのである。
それにしても、なぜ仏の本願によることが、法然においても親鸞においても、それほど重要な転換点となったのか。それは、自らの思いや力に依拠するならば仏道にならない、ということが決定したからである。
もし本願によるということが、自分の思いに依拠したまま本願を頼るということに過ぎないなら、人生を一転させはしないだろう。だからこそ、法然は「余行をすてて念仏に帰す」と言い、親鸞は「雑行を棄てて本願に帰す」と言うのである。
したがって本願に帰すとは、雑行を棄てた後に起こる出来事ではない。本願に帰すとは、そのまま、自らの思いや力で取り組む一切の行を「余行」「雑行」と見る眼を頂き、棄てることになる。そしてだからこそ本願の仏道は、一切の人々に開かれたものになるのである。