《浄土宗開宗850年⑤》本願を説く人に遇う、そこに聞き開かれる仏道(2/2ページ)
真宗大谷派教学研究所所員 難波教行氏
本願の仏道が開顕されるにあたって、教学の礎を築いた『選択集』の果たした意義は量り知れない。『選択集』「本願章」には第十八願が掲げられ、「念仏往生の願」あるいは「本願の中の王」と位置付けられている。したがって、法然がいう本願は、如来の根本的願心をあらわした第十八願ということになるだろう。
このように『選択集』は、第十八願に如来の根本的な願心を見さだめて撰述された。その書写を許された親鸞は、感銘をもって「真宗の簡要、念仏の奥義、斯れに摂在せり」(化身土巻)と語っている。親鸞から見れば、この書にこそ真によるべき宗が、そして本願の仏道が、明らかに説かれているのである。
ただ、ここに一つの疑問が残る。それは、本願の仏道を明らかに説いた『選択集』があるにもかかわらず、なぜ親鸞は『教行信証』を書かねばならなかったのかという問いである。それは、本願を説く人に遇う時、その教えを聞く者にどんな課題があるのかという問いでもある。
『選択集』が第十八願一つをもって如来の根本的な願心を示しているのに対し、親鸞はそれを承けつつも、第十七願・第十八願の二願、あるいは真仮八願を根本に据えて『教行信証』を著している。それが後に、法然から親鸞への「発展」や「徹底」とも捉えられてきた。しかし、繰り返すが、親鸞は法然が浄土真宗を開き、本願を説いた仏者と見ていた。ならば、親鸞は法然の教えに発展する余地があると考えてはいなかったはずである。
『教行信証』「別序」に「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し」とあることに注意すれば、親鸞は、法然が説く本願の仏道に遇ってなお、自らの思いや力を根拠にしてやまない人間の問題を課題として、今一度法然の教えに向き合い、『教行信証』を執筆したと言えるのではないか。それは本願を聞く者としての課題である。
この課題は、親鸞が終生大事にした法然の言葉にもよく表れている。ここでは「如来の誓願には義なきを義とす」(『御消息集(善性本)』)と「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」(『末燈鈔』)という二つの言葉を挙げてみたい。
親鸞が直接法然の教えを聞いたのは、京都吉水での約6年間だけであるが、親鸞はこれらの言葉を法然の教えとして、晩年、消息等に認めている。前者には、本願の仏道を聞いた者が自らの主張として「義」を立てていく問題が見据えられ、後者には、教えを聞いた者がいつの間にか智者ぶり、自らを誇っていく問題が見据えられている。
そのように誤解する人間の有り様を問題として、親鸞は法然が説く本願の仏道を聞く立場から確かめ直したのではないか。今日改めて親鸞における浄土真宗の立教開宗を受けとめ直すならば、このような意味になると考えられる。
それゆえ親鸞の営為は、法然の教えを発展・徹底したものでも、はたまた法然と切り離された独自(オリジナル)の路線を歩んだものでもないと言わなければならない。それは、法然の教えを誤解し、再度自らの思いや力に依拠しようとする在り方に陥る人間の問題を自らの問題として、どこまでも本願を聞く立場に立って明らかにした思索だと言うべきではないか。
そして親鸞はそうした思索を、独りで行ったのではない点も重要であろう。親鸞の場合、例えば第十七願への着目は聖覚の思索、あるいは法然の別の言葉に示唆を受け、第十九願や第二十願への着目は隆寛の思索との呼応関係の中で深まっていったと考えられる。
法然は浄土宗を開き、本願の仏道をこの日本に説きひろめた。すなわち浄土宗開宗は、本願を聞く者を生み出すという意味をもった。そこに法然による浄土宗開宗の大いなる意義がある。そして真宗門徒とは、法然の説いた本願の仏道を、どこまでも聞く立場に身を置いて思索した親鸞を宗祖とするということである。
本年、浄土宗開宗850年の法要が勤まる。時同じくして、昨年本山で慶讃法要が勤まった真宗教団では、各地で親鸞の誕生850年と立教開宗800年の慶讃法要が勤まっていく予定である。本願を説く人に遇う時、自らのどのような在り方が聞き開かれるのか。本年はそのことと対峙する一年になる。