《浄土宗開宗850年②》法然によって万人に開かれた「宗」(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所助手 中村玲太氏
法然(1133~1212)の偉業として、「浄土教を一宗派として、すなわち浄土宗として独立させた」ことが真っ先に語られるのは必然なことであろう。それほど日本仏教に及ぼした影響は大きい。このことをさらに紐解けば、「浄土宗として独立させた」精神の基底には、仏教徒――の誰しも――が「宗」という自己の立場に依って、釈尊一代の教えと向き合うことの必要性への、そしてそれが仏教徒の伝統たることへの確信があった。
浄土宗の独立という結果の重要性もさることながら、日本仏教の中において「宗」という問題をわが身において再考した法然の精神にも注目すべきである。この「宗」について、法然を通して今一度考えてみたい。
日本中世において、宗とは現代で想起される教団としての意味ではなく、学派、学閥的な意味合いが強い。いずれにせよ、宗という語が掲げられる以上、宗の語義や理念が考究されてきた。
法然と同時代の宗理解について確認すると、代表的なところでは、法然を批判した『興福寺奏状』第一条「新宗を立つる失」に、宗を端的に示すものとして、「譬へば衆流の巨海に宗するが如く、なほ万群の一人に朝するに似たり」とある。全てが行き着く一つのところとして宗を捉えている。そうした宗理解から、「浄土宗」を立てるということは、仏教全体は称名念仏を「唯説」するものであるのかが問われている。
このように宗とは、釈尊一代の教えが究極的に帰着するものが何かを表そうとする営為であると言えるが、それだけではなく、仏教全体を組織立てて論ずること(いわゆる「教相判釈」)も要請された(善裕昭「初期法然の宗観念」『佛教大学総合研究所紀要』第三号参照)。
なぜ、宗に関して仏教全体を組織立てて論ずることが要請されたのだろうか。
まず、経典には様々な、時には衝突する教えが説かれ、仏教徒を悩ませてきた。仏説全てを同等に仏陀の真意であると認めることは原理的に不可能であり、何を真実とするかという選び、立場が必ず生じる。そこで何か一つの教えに宗、仏教の根本を見出していくのであるが、仏教徒は他の教えを「非仏説」とは考えなかった。
故に釈尊一代の教えについて、全てを仏説と認めた上で、その中で何が真実か方便かなどと組織立てて把握しようとしたのである。宗を立てることが、他の立場を一切認めないことであれば、仏教のある一面を切り取り、細分化していくものとして「宗派」の成立も捉えられるが、そうではない。自らの宗に立つとは、それと同時に、仏教全体と対峙していく営為でもあったのである。
法然にしても浄土宗とは、浄土教から仏教全体を見る視点を得たという宣言であった。法然は、「浄土宗の意に依れば、一切の教行はことごとく念仏の方便と成る」(「一期物語」)として、一切の教えや行いは念仏の方便として存在意義を発揮するという仏教の見方を明確にしている。
法然の法語としてよく言及される、「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん様に過ぐべし」(「諸人伝説の詞」)という、より念仏する生き様を選べという教えも、この後に出家や在家の在り方について言及されるように、仏教徒が生きる全般的な指針を念仏から見据えていくものである。
先の「一切の教えや行いは念仏の方便として存在意義を発揮する」という法然の見方には、ある前提がある。法然は『観無量寿経』について、天台宗に依れば、あるいは法相宗に依れば、として浄土宗以外の立場もあることを認めた上で、浄土宗に依れば、として念仏と釈尊一代の教えについて自己の立場を表明するのである。