《浄土宗開宗850年②》法然によって万人に開かれた「宗」(2/2ページ)
真宗大谷派教学研究所助手 中村玲太氏
法然は教相判釈が立場によって変わること、唯一絶対の仏教観などないことをよく認識するところであった。先学も指摘するように、教相判釈や宗自体が相対的だという認識が法然にはあり、故に、浄土宗という立場を示すことに何ら不都合はないという了解もあったのであろう。
この宗の相対性について、法然没後の思索を一例挙げれば、京中で宗派内外の多様な人師と論陣を張っていた、浄土宗西山義の道教顕意(1238~1304)の言明が特筆される。顕意は「権実は宗を隠しては不定なり」(『玄義分楷定記』巻二)として、宗を離れた真実、方便の判定などないとしている。まさに教相判釈、宗の相対性を明示していると言えよう。ただこれも、浄土宗の立場を導くための前提である。
法然に戻ると、宗の相対性を前提とする背景には、宗とは仏説ではなく、人が立てるものであるという理解が大きく関わっていると考えられる。法然は、「宗を立つることはさらに仏説に非ず、自ら学ぶところの経論に付いて、その義を覚極する也。諸宗の習いみな以てかくの如し」(「禅勝房との十一箇條問答」)としている。
そもそも天台宗や華厳宗などと「宗」を立てることは仏説ではない(釈尊の決めたことではない)のである。先達はみな自らが学んだ経典・論書について、その教えを探求し極め、何が仏教の根本であるか、すなわち宗とは何かを明らかにしたのである。そして、この続きには、浄土宗も浄土を宗としてきた先達によって立てるものだとする。
仏説で決められたものではない以上、どの宗に依るべきかという絶対的基準はないと言える。確かに自分勝手に開宗することは問題かもしれないが、先達に依って宗に立ち、自己の立場を確かめていくことは誰にでもし得ること、せざるを得ないこと(=仏説ではなく釈迦滅後の仏教徒の必然の営み)だと法然は認識していたのだと考えることができよう。
既存の宗のみで全ての仏教観が網羅されているとは見ていなかったとも言える。そして、仏教徒が続けてきた仏説との向き合い方の延長として、自己が依って立つべき宗を求めた結果が、浄土宗開宗であったと見ることができるのではないだろうか。
なお、法然『選択本願念仏集』には、「且く聖道門を閣きて」とあり、浄土教以外の立場である自力の教え、すなわち聖道門を離れるべきことを勧めたものとして捉えられる言葉がある。ただこれも、上述の「宗」の視点から論じ得るものである。まず、この仮説的意味合いのある「且」(しばらく)という副詞によって、完全な聖道門否定を意味する語義ではないことが考究されてきている。
今はその詳細は紙幅の都合上割愛せざるを得ないが、法然は、ひとえに依拠する善導に依るときにも「且」の語を用いている。そこに消極的な意味合いはない。にもかかわらず「且」を置く所以は、法然における宗の立場性、相対性の認識を考慮すべきであり、「且」には、そうした法然の立場性(数ある立場の中の一つの立場であるという自覚)が現れたものだと推測する。
先述の「且く聖道門を閣きて」も同様に考えることができ、聖道門への数ある態度が想定される中、末法の世において、罪悪深き自己の――如来から与えられた決定的な――選択として聖道門の在り方から距離を置くべきことを表明したものだと見ることも可能であろう。
さて、法然のもとに集った直弟たちは、類例のないほど多彩な浄土教理解を展開していく。それを法然との「相違」で捉えることもできるが、むしろ「ただ念仏」から仏教を見通す多様な視点を後押しした法然その人の結果が、法然門下の多様性なのではないか。
法然は、念仏へと向かう在り方は人それぞれであるとしていたが、それは念仏に向かうための仏教理解にしても同じことが言えよう。浄土宗に立つということは、決して完成された立場を意味せず、そこからそれぞれの課題に従って念仏の道、仏教の道を歩んでいくのである。
法然門下、そして我々にしても、「ただ念仏」という指針を与えられながら、各々が生きるべき環境で思索せざるを得ないのであり、そこから法然に後押しされるように一人一人が依って立つべき「宗」に生きるのである。そしてそれは細分化された教義に囚われるのではなく、仏教という大海原に向かってこそ意味あるものとなるのである。