新しい「領解文」に感じる「わかりやすい」の違和感(1/2ページ)
広島文教大非常勤講師 深水顕真氏
「わかりやすい」文章とは何なのか。2023年1月16日、浄土真宗本願寺派専如門主より「新しい『領解文』(浄土真宗のみおしえ)」(以下新領解文)が発布されて以来、「わかりやすい」について思索を巡らせてきた。確かに新領解文は現代語を使い一見すれば「わかりやすい」。しかし、浄土真宗の理解が示された「領解の文」としたとき、決して「わかりやすい」ものではなく素直に受け入れることはできなかった。
この違和感は単に個人的なものではない。SNSを中心に新領解文に関する情報を発信している僧侶グループ「新しい領解文を考える会」が、23年5月15日にセルフ型アンケートツールFreeasyで行った300人のサンプルに対してのアンケート調査では、新領解文が「平易でわかりやすい」かの賛否が拮抗した一方で、布教・伝道効果には多数が否定的であった。
さらにこの違和感を宗教学の方法論を用いて分析したものが、昨年9月開催の日本宗教学会第82回学術大会における「教典翻訳の危険性 ―『わかりやすさ』という誘惑―」という拙論発表である。この学術大会では「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)について考える」をテーマとして様々な視点を持つ3人の研究者とともにパネル形式での発表、議論を行った。本論では、この拙論発表をもとに、新領解文が「わかりやすい」かについて考えていきたい。
さて、新領解文発布の消息には、次のような一文が付されている。
「しかしながら、時代の推移とともに、『領解文』の理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきたことも否めません。したがって、これから先、この『領解文』の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の『領解文』というべきものが必要になってきます」
また2月に発表された勧学寮の「ご消息 解説」では、新領解文を「その肝要を現代版に直したものである」ともしている。これらからわかるように、新領解文は従来の「領解文」を単純に現代語に置き換えたものではなく、浄土真宗の肝要を新たな文章で「わかりやすく」現代に向けて表現したものとされている。
そこで、この新領解文を、従来の「領解文」という経典を現代という文化圏へ〈翻訳〉したものとして捉えなおしていきたい。聖書学を専門とする土屋博の論を引用するなら、経典の〈翻訳〉とは単なる字句の置き換えではない。それは字句の背後にある「地域文化の総体にかかわる問題」(P.162 土屋博『教典になった宗教』北海道大学出版会2002)として捉えなくてはならない。つまり、経典の〈翻訳〉には単なる字句を超えた「文化の総体」としてのメッセージが込められていると考えることができる。
そこで、「文化の総体」として新領解文の経典としての〈翻訳〉を捉えるために、記号、内容、構造の三つの層から分析を行った。
従来の「領解文」が蓮如上人に由来した古語で書かれたものであるのに対して、新領解文は現代語を用いており「わかりやすい」。
新領解文は全く新しい現代語の文章であるために、これまでの教学や歴史性の文脈を断ち切り批判を受けている。特に浄土真宗本願寺派最高位の学僧である勧学と司教からなる「勧学・司教有志の会」がインターネット上で発表した声明文で「宗祖親鸞聖人のご法義に照らして、速やかに取り下げるべきである」と厳しく指摘したことは、この内容レベルでの断絶と乖離といえる。