新しい「領解文」に感じる「わかりやすい」の違和感(2/2ページ)
広島文教大非常勤講師 深水顕真氏
構造とは内容のさらに深層に位置するもので「文化の総体」と連なるものである。新領解文の「わかりやすい」への違和感は、この構造の分析から捉えることができる。
文化人類学者のレヴィ=ストロースは神話の構造を分析するために二項対立の概念を用いた。彼は二項対立を人間が世界を秩序づける「もっとも単純な体系の例」(P.192『野生の思考』みすず書房1976)とし、「世界は対立を何段にも重ねて作られた連続体のかたちであらわされている」(同P.167)と考える。また、対立項がそれぞれ文中に明記されなくとも、例えば「善」が明記されれば「悪」が暗示されるように、その潜在的な対立構造を読み取ることができる。この二項対立を新領解文から抽出することでその構造を分析してみよう。
まず分析の前提として従来の「領解文」の四つの段落において二項対立の構造を抽出してみる。冒頭「安心」の段においては、「たのむ他力」と振り捨てる「雑修自力」との二項対立構造が明確である。続く「報謝」「師徳」「法度」の各段においては、「称名御恩報謝」と「御出世・御勧化の御恩」「掟守るべし」が明記されている。これらの対立項は「自力の念仏」「自力の回向」「見返りを求めた遵法」と設定することができるだろう。ここでは、上段に本文の項目を、下段に対立する項を配置(図式化=表1)した。
このように従来の「領解文」を二項対立構造の連続体として分析をするなら、他力を勧め、対立項で自力を否定する「横軸」に通底した構造からのメッセージは明確である。
続いて新領解文をこの二項対立の方法論で分析するとどうだろうか。勧学寮の「ご消息 解説」に沿った形で新領解文を四つの段落に分解し、それぞれの対立構造を抽出する。
まずここでわかることは、「信心」段で「煩悩とさとりは本来一つ」の対立項が不明確であるということである。従来の「領解文」が冒頭で自力と他力の対立構造を明記したことと大きく違っている。
それを踏まえたうえで、あえて各段で明記された項に対立するものとして「煩悩とさとりは別物」「ありがとうといただけない」「自力の回向」「精一杯勤めることができない」を設定した。
上段に本文の項目を、下段に対立する項を配置(図式化=表2)した。
その結果、下段の対立項の「横軸」からは、煩悩に苦しむ人間のありのままの姿が見えてくる。ここに示される人間のありのままの姿は、元来浄土真宗の救いの対象とされてきたものである。しかし新領解文では、これら浄土真宗の重要な要素が構造レベルで対立項として否定的に位置づけられる。そのため、この文章からは浄土真宗とは何なのかを二項対立の肯定と否定の関係性から構造的メッセージとして見出すことが難しい。こうした新領解文の持つ構造レベルの不明確さが「わかりやすい」への違和感となっていると分析できる。
従来の「領解文」は蓮如上人に由来し、数百年にわたって浄土真宗の信仰の中に組み込まれてきた。本論で指摘した構造レベルでの明確さは長年支持された理由の一つともいえる。一方で、従来の「領解文」は古語で記述され現代人が一読で理解することは難しい。その意味で、従来の「領解文」の現代への〈翻訳〉は必然といえる。
しかし、この度発布された新領解文はA.記号レベルでは現代に適応したとしても、B.内容レベルではこれまでの教学的・歴史的文脈と断絶しており、C.構造レベルではそのメッセージが不明確である。その結果が一連の騒動の背景にある違和感の原因ともなっている。はたして、こうした問題を抱える新領解文が今後どのように推敲され、教団内で受容されるか否かを注視していきたい。