《浄土宗開宗850年①》浄土宗開宗850年の意義と現代の課題(1/2ページ)
浄土宗総合研究所所長 今岡達雄氏
法然上人開宗までの歩みとその理解、そして現代の課題への浄土宗の対応方向について考察しました。
宗祖法然上人が浄土宗を開宗するまでの歩みを『法然上人行状絵図(以下、勅修御伝)』を中心に概観しましょう。
法然上人は1133(長承2)年4月7日に美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)にお生まれになりました。父は漆間時国、母は秦氏出身の女性で、幼名は勢至丸と名づけられました。9歳の時、父漆間時国は政敵の夜襲を受け亡くなりますが、臨終の床で父から遺言を聞かされます。
大変重要なので『勅修御伝』から引用します。「汝更に会稽の恥を思い、敵人を恨むることなかれ。これ、ひとえに先世の宿業なり。もし、遺恨を結ばば、その仇世々に尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには(『勅修御伝』第一巻第五段)」とあり夜襲をした敵人を恨まずに怨みの連鎖を断ち切れ、そのため出家し、父の菩提を弔うとともに自らの解脱を求めよというものであり法然上人の一生に多大な影響を及ぼしたと考えます。
9歳の勢至丸は叔父である奈岐山菩提寺の観覚に預けられます。観覚は勢至丸の才覚に気付き比叡山西塔北谷持宝房源光に託します。勢至丸15歳の時に比叡山に登ります。源光は勢至丸を東塔西谷功徳院皇円に託し、皇円の下で受戒出家し17歳で「天台六十巻」を読破して内容を修得し皇円を驚かせました。その評価は皇円に「学道を勤め大業を遂げて、円宗の棟梁となり給え(同、第三巻第六段)」と言わしめたほどでした。
しかし18歳の時、比叡山西塔黒谷の叡空を訪れ、「幼稚の昔より成人の今に至るまで、父の遺言忘れ難くして、永久に隠遁の心深き(同、前)」と申して遁世します。24歳の時、叡空の許しを得て、嵯峨清凉寺釈迦堂にて7日間参籠します。この参籠は「求法の一事を祈請のためなりけり(同、第四巻第二段)」と記されています。また参籠のあとすぐに比叡には帰らず奈良に諸宗の碩学を訊ねています。
24歳から43歳までの法然上人の行状は詳しく語られていません。この間に恵心僧都源信の『往生要集』を学び、そこに示されている観念念仏と称名念仏について叡空との論争を経ながら、次第に称名念仏へ軸足を置くようになりました。そして、善導大師の『観無量寿経疏(観経疏)』に出会うのです。
『勅修御伝』にはこのように記されています。「善導和尚の観経の疏の、『一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に』という文を見得て後、我等がごとくの無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、専らこの理を馮みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず。また篤く弥陀の弘誓に順ぜり(同、第六巻第四段)」
このように1175(承安5)年の春、上人43歳の時、すぐさま諸行を捨てて一筋に念仏の教えに帰依され、これを以て浄土宗開宗としたのです。
また開宗の意趣については「我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむためなり(同、第六巻第六段)」とあります。「宗」とは宗教的な教えのことであり、現在のような宗教組織を示すものではありません。つまり法然上人が建てたのは「新しい浄土の教え」であり、その訳は凡夫(仏教の理解や実践に乏しい、凡庸で愚かな者)が阿弥陀仏が本願に基づいてお造りになった仏の国土(極楽浄土)に往生できることを示すためであるとされているのです。
現在の浄土宗は、このお言葉があったからこそ存在し得るのであり、常に再確認することが必要だと考えます。