《浄土宗開宗850年①》浄土宗開宗850年の意義と現代の課題(2/2ページ)
浄土宗総合研究所所長 今岡達雄氏
勢至丸にとって父の遺言は衝撃的であったと思います。法然上人の誕生から開宗に至る足取りを何度も読み返しました。そこで得た印象は父漆間時国の遺言の重さです。これは法句経(パーリ語「ダンマパダ」)の第5偈に示されるお釈迦様のお言葉「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(中村元訳『ブッダの真理のことば』)と重なります。多分、法然上人も釈尊の言葉に会い、「永遠の真理」を理解し「怨みをすてて」の方法論を模索したのではないでしょうか。
黒谷への遁世の理由については、当時の比叡山が名誉栄達を最終目的にし、さとりをなおざりにする傾向にあったこと、僧兵の濫行が目に余るものであったこと、そのため心静かな修行の場ではなくなっていたという理由が挙げられています。しかし叡空が遁世の理由を質したときの上人の言葉「父の遺言忘れがたく、いつも変わることなく世事を遁れて仏道修行をしたい思い」も重く受け取るべきと思います。
24歳の時、嵯峨清凉寺釈迦堂への参籠については、釈迦堂には「生身の釈迦像」があり釈尊から直接教えを授かろうとしたが、そこで目にしたものは様々な苦悩を持ち、お釈迦様に救いを求める多くの人々の姿であり、僧侶には多くの人を救うという本来の目的があることに気付かされたと解釈されています。しかし法然上人参籠の真の目的は、お釈迦様に「怨みをすてて」の方法論を授かる目的もあったのではないかと思います。また、釈迦堂参籠に続く南都碩学訪問も怨みを捨てる方法論を探すために碩学をたずねたのではないでしょうか。
また善導大師『観経疏』の「一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」の一文との出会いは、称名念仏が他の行を必要としないどこでもいつでも行える行であり、これを常に続けることは心の静寂を生み出す正しい方法論であり、それは阿弥陀仏の本願に順った行であるからだと体感できたからだったでしょう。
法然上人の開宗に至る歩みにはつねに「父の遺言忘れがたく」という感情と「怨みをすてて」の方法論模索があったような気がします。
さて、近年浄土宗では50年毎に開宗慶讃事業を行っています。これは宗の活動を50年毎に再活性化するという意味が大きいと思います。これまでの開宗慶讃事業にはどのような意味が込められていたのでしょう。
開宗800年正当は1974(昭和49)年で戦後分裂した浄土宗の合同が実現して13年、黒谷浄土宗の浄土宗への復帰も検討され、現在の浄土宗が再出発した年です。戦災にあった寺院の復興も一段落し、新生浄土宗の出発という大きな意味がある年でした。様々な慶讃事業の実施の中で、中心的テーマは教化推進にありました。浄土宗教化センターの創設、社会活動実施寺院の組織化である公益教化事業団体の創設も積極的に行われました。経済の高度成長の効果もあり教宣の拡大効果が少なからずあったと思われます。
開宗750年正当は1924(大正13)年で、前後に関東大震災、治安維持法公布、ナチ党発足と世の中には暗雲が押し寄せていました。浄土宗では社会事業の推進、大学の設立など教育事業推進が行われました。また山崎弁栄、渡辺海旭、椎尾弁匡、矢吹慶輝等の人材を輩出し浄土宗は社会事業宗とも称されました。
開宗700年正当は1874(明治7)年で明治維新直後であり宗としての活動が困難な時期でした。開宗慶讃事業とは社会状況とも深く関連した活動であったと考えます。
さて現在の社会状況をみると、恨みが怨みを呼び、憎しみの連鎖によって戦い殺し合う場面が多々見られます。それは個人間から国家間、イデオロギー間に広がる可能性を秘めています。いまこそ、法然上人の「開宗、もう一つの意義」を受け止め、称名念仏の輪を広げ人々の平和に寄与することが必要な時期であると思います。これは浄土宗21世紀劈頭宣言「愚者の自覚を 家庭にみ仏の光を 社会に慈しみを 世界に共生を」の具現化に繋がるものです。
浄土宗開宗850年を記念した「論」を5回掲載する予定です。