皇居に眠る聖書の意味(1/2ページ)
仏教史学会会員 佐野学氏
政教分離原則や、信教の自由を持たない国は現代においても存在する。国家がある宗教を禁止、排除、弾圧することは現代も繰り返されている。政教分離原則や信教の自由は混乱と殺戮の上で獲得されてきた。日本もそのような国の一つであったことを忘れることができない。
日本は300年にわたりキリスト教禁制が敷かれ、それは社会制度ともなっていった。輸入品や書物なども厳しい検閲によって情報までも統制されていたのである。「耶蘇」は国を混乱させ人民を惑わす「邪教」であったのである。
1859(安政6)年に来日した米国人宣教医のヘボン(J.C.Hepburn、1815~1911)はその際、特別な聖書を携えていた。その聖書は56年に出版された『Imperial Quarto English Bible』を特別に装丁されたものであった。56年秋、American Bible Society(ABS、アメリカ聖書協会)は世界の君主に聖書を贈呈する計画をしており、その1冊をヘボンは託されたのである。ヘボンは天皇への献上を歴代の駐日公使に依頼するのであるが13年間実現することができなかったのである。
65年、国内外を揺るがす大事件が発生する。長崎でキリシタンが数千人規模で信仰表明をし始めたのである。黒船来航以降、恐れていた邪教の侵入と拡大が現実になったと多くの日本人が不安を感じた。キリスト教は仏教を滅ぼし、国を滅ぼすと考えられていたからである。オカルト的な恐怖を伴い、その出来事は日本国中に大きな動揺をもたらしたのであった。
明治政府は3千人余りのキリシタンを日本各地ヘ流刑する。「浦上四番崩れ」である。それに対して西欧各国は人民虐待であると激しい抗議を行い、岩倉使節団は各国の条約改正協議の座においてキリシタンの解放とキリスト教解禁を迫られたのである。
アメリカでは「宗教の迫害を防がないならば自由な交際は出来ない」「外国の宗教を侮辱するのは外国人を侮辱することだ」と期限切れが迫る条約に信教の自由を盛り込むことを条件とする。しかし、日本側はキリシタン解放が「人民の反発を招」き再び攘夷が訴えられ、内乱によって実権を失う恐れからそれを避けようとする。
「4千人のキリスト教徒が追放され、山林に追いやられ、鉱山に送られ奴隷にされたのだ。外国公使はこぞって抗議をし、そのようなことが起きないよう約束をしたが、その後も続々と、捕らえられ、九州に流されたものは、寒さに凍え、飢餓に苦しみ、死に絶え、または鎖をかけられて外に晒された」とデロング駐日公使は激しく糾弾し、そして最後には「この条約はまったく用をなしていない。これだけでは虐待を止めさせられない」と言った。この協議ではもはや、信教の自由の条項がなければ条約改正がありえないことが決定的となったのである。
浦上キリシタンの犠牲は信教の自由獲得の理由の一つであったと考えることができる。
明治初期において、天皇中心の国民教化政策である「大教宣布」「教部省の創設」「三条教則」と国家神道への国民教化が進もうとしていた。しかし、キリシタン弾圧という事件は信教の自由を西欧諸国に執拗に迫らせたのであった。そして、73(明治6)年2月、キリスト教禁制の高札は降ろされることとなったのである。
話をヘボンに戻すのであるが、ヘボンは13年の働きによって聖書の翻訳や和英書林集成第2版の出版、日本基督公会の設立など、日本宣教の成果を携え一時帰国を決めた。
しかし、「宿願」である聖書の献上は実現していなかった。ヘボンは半年間通訳の代役をしていたため、親しい間柄にあったデロング公使へ聖書献上の打診を依頼した。未だキリスト教禁制の高札は掲げられ、キリシタン3千人余りが日本各藩に流刑された状況であった。当初は難しいと考えられたが、ヘボンの熱意はデロングを動かし、72(明治5)年9月23日「貴国ヘボンより進献の書籍類御受納相成間其旨御承知可被成候」「其之旨陛下より拙者迄御書簡を以御申越被下度」と明治天皇に受納されたことを知った。出港3日前であった。