近江の聖徳太子信仰とは何か?(1/2ページ)
日本習字教育財団観峰館・学芸員 寺前公基氏
東近江地域では、聖徳太子1400年遠忌に当たる2022年から「聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会」が、同地域で様々なイベントを展開している。筆者が所属する公益財団法人日本習字教育財団 観峰館では、同委員会の依頼の下、特別企画展「近江・聖徳太子伝承社寺の美術―地域に根付いた文化財たち―」を開催する運びとなった。
「近江発 聖徳太子の足跡めぐり」HPのトップページには、「聖徳太子にまつわる伝承が日本一多いのは、近江」と明確に記されているように、この東近江地域には聖徳太子伝承が多くあり、関連する社寺も多くある。この展覧会は、中心となる11の社寺を中心に、関連寺院、各博物館から様々な協力を得ることとなった。
東近江市内に眼を向けると、石馬寺、瓦屋寺、百済寺といった寺院があり、いずれも聖徳太子開基の伝承を持つ。しかしながら、それらの寺院には、太子開基の確かな「史実」は存在せず、あくまで伝承の域に留まる。しかし、現代まで受け継がれる伝承には、必ずその伝承が生まれた「原因」があるはずで、逆に言えば、伝承が無ければ後に述べるような信仰も生まれてこないのである。
そこで、その経緯を探るべく、展覧会における事前調査において各社寺の什物調査を実施したところ、わずかながら聖徳太子伝承ならびに信仰の足跡が見えてきたのである。
石馬寺は、推古天皇2(594)年、太子を開基とする寺院である。太子の駒が石と化した伝説からその名が付き、住職一代につき一度、御開帳の秘仏・十一面千手観音像は、太子御作とされる(ただし、『近江名所図会』は、快慶作とする)。享保19(1734)年成立の地誌『近江輿地志略』は、膳所藩士・寒川辰清によって編纂されたものであるが、その中で石馬寺について、「臣 按ずるに馬の石と成る事理に於て有るべからず(私が思うに、馬が石と成るのは道理にかなわない)」としている。また、石馬寺には現在通用する「いしばじ」ではなく、「せきばじ」とルビを振る。
このことから類推するに、石馬寺という寺の由来は、「石」と「馬」とに分けるべきであり、石馬寺の位置する場所が石と馬という、仏教寺院の建築、軍事面で必要な馬の生育に必要な資源がそろっていたことを意味するのだろう。特に、仏教興隆にとって必須となる寺院建立において礎石他に使用される「石」は重要であり、「せきば」というルビからは本来「石場」という字が充てられていたとも解される。事実、『信長公記』に、天正8(1580)年3月20日のこととして、石馬寺の栄螺坊に「無辺」という修験僧が住み着いたとあり、その石馬寺の標記は「石場」とされる。これを信ずれば、まず「石」があり、太子の黒駒伝承が後付けされて「石馬」となったとも考えられよう。
さて展覧会における同寺の悉皆調査では、太子信仰を示す作品が本堂の太子像2躯以外に確認されなかったが、室町時代の仏画の優品が多く所蔵されており、多くの塔頭を有した中世・天台寺院時代の姿が偲ばれる。
石馬寺の場合、太子信仰を示す南無仏太子像(三歳像)や馬上太子像などは江戸時代以降に制作されたものである。石馬寺は正保元(1644)年、瑞巌寺の雲居希膺を以て再興したが、実質、同寺を復興したのは、洞水東初の高弟の第三世・龍光東済である。文化2(1805)年写の「御都繖山石馬禅寺御諸事由緒記之抜書」には、龍光の代における復興の様子が記され、龍光が度々「太子開基」を主張する。特に、元禄7(1694)年の開基1100年を尊重していたようであり、その前後には、慈王院、東光院、地蔵院の塔頭整備、各院に安置する什物整理などを実施している。そのことは、同寺所蔵「阿弥陀三尊像」の軸木に、宝永3(1706)年7月、同作品を地蔵院の什物とした龍光筆の墨書からもうかがえる。