近江の聖徳太子信仰とは何か?(2/2ページ)
日本習字教育財団観峰館・学芸員 寺前公基氏
しかしこの流れは、龍光東済が師の洞水東初、さらにその師である雲居希膺の意趣を汲んでいたと解したい。と言うのも、雲居希膺は、聖徳太子信仰に篤く、事実、石馬寺に遺された「石馬山之偶作」には、末尾に「観世妙音菩薩の境、田に漫々、畠に漫々」とあり、石馬寺の観音菩薩は、先に述べた秘仏の他、平安時代前期作の観音菩薩像2体のいずれもが、聖徳太子御作の伝承があるものである。
石馬寺と時を同じくして再興された瓦屋寺は、雲居希膺の高弟・香山祖桂により再興されている。瓦屋寺は、位置する箕作山から瓦や窯跡の遺跡が見つかっているように、四天王寺など中央の寺院に瓦を供出したことで知られ、太子開基の伝承を持つ寺院である。石馬寺同様、石や瓦といった寺院建立に必要な資材があったという共通性を見出すことができる。そして、太子信仰のシンボルとして中世以降、本堂に安置されたのが「南無仏太子像」である。
瓦屋寺の復興にあたり、その主導者である雲居希膺筆の「瓦屋寺縁起」には、瓦屋寺が太子開基であることを示し、四天王寺、六角堂に次ぐ、近江第一の寺とする。そして、太子自作の本尊である秘仏・千手観音像について述べ、中世の災禍によって「矮盧」に置かれていた本尊を再び安置するための宝殿を作ることを呼び掛け、その事業を同寺の「復興」と位置付けているのである。
この縁起の用紙は折紙であり、勧進帳のような体裁を取っている。そして本文の構成は、雲居希膺が瓦屋寺再興にあたり、太子信仰を積極的に取り入れ、太子自作の本尊を象徴的に示すことで、その道筋を立てようとするものである。同寺所蔵で、雲居から香山に賜与した「印可状」においても、「千手眼の悲願力」とあるのは、同じく太子自作伝承の本尊を指すのであろう。
従来、石馬寺や瓦屋寺が復興を果たしたのは、陸奥・伊達藩の「飛び領地」が市内にあり、その所縁によって瑞巌寺の高僧・雲居希膺が各寺院に招聘され、その名声によって復興を遂げたという解釈がなされてきた。しかしながら、雲居希膺の聖徳太子に対する信仰心を元に、太子信仰を寺院復興に積極的に利用しようとしたという事実は、新しい発見といえよう。ここに、江戸時代に果たした聖徳太子信仰の役割を見ることができるのである。
そのことは、百済寺においても同様である。百済寺は天台宗の古刹として現在も知られている。その歴史において、元亀4(1573)年の信長による焼き討ちは、同寺にとって大きな分岐点である。百済寺の復興は早く、天正年間には本尊が仮本堂に安置されている。
百済寺の本格的な復興は、江戸初期、徳川家ならびに井伊家の支援を俟たねばならないが、時を同じくして同寺には「聖徳太子六随臣像」が施入されている。この箱書には「本堂宝蔵常什物」とあることから、百済寺にとっても重要なものであった。
確かに、天台宗はその宗祖・最澄が「太子の弟子」と称したことからも分かるように、少なからず太子信仰が存在している。天台宗寺院として存続した百済寺が江戸初期に「聖徳太子六随臣像」を本堂に安置したのは、やはり、石馬寺や瓦屋寺同様、復興のための手段と考えるべきである。
まとめるならば、中世から近世にかけての東近江地域の寺院復興には、太子信仰が少なからずその一端を担っている。とすれば、地域の歴史を考えるにおいて、太子信仰を等閑に伏すことはできない。ではなぜ、この地域に太子信仰があったのか。それは、各寺院の開基に聖徳太子が関わっており、その太子の伝承ならびに信仰が地域に根付いていたからに他ならない。伝承を伝承で片付けるべきではない。その根拠がここにあるといえよう。
最後に、東近江地域で実施されている「聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会」の各種イベントは、本稿で紹介した石馬寺、瓦屋寺の秘仏御開帳を経て、12月3日を以て終わりを迎えようとしている。このイベントもまた、太子伝承を元に発足したものである……太子伝承の力は、現代まで脈々と受け継がれているのである。