理想と現実のはざまで ― 真宗大谷派「宗憲」と川島武宜(1/2ページ)
立命館アジア太平洋大助教 宮部峻氏
仏教教団は、信仰共同体であるとともに、行政・経営組織でもある。教団組織の運営には、経典・聖典の教えだけでなく、行政上の手続きを定めた法規が必要となる。したがって、教団の最高法規には、仏教の教え・願いに基づく理想と組織の運営を巡る事項を定める現実の両方が現れることとなる。真宗大谷派を例にとると、「宗憲」がそれにあたる。
理想と現実のはざまで教団組織が動いているから、例えば、行財政改革といった教団運営の現実的な問題に取り組むときであっても、そこにいかなる仏教の教えや願いが現れているのか、すなわち、理想が問われることになる。男女共同参画や多様性推進という理想と現実が複雑に絡む問題の場合には、現実の制度改革のみならず、従来、理想とされてきたものがはたして正しい教え・願いであったのか、教義解釈の検討も行われる。
こうした課題は、大谷派の宗議会をはじめ、さまざまな場面で議論されている。議論に注目すると、たびたび「宗憲」に言及されていることに気づくであろう。それは「宗憲」が教団の理想と現実の双方を表しているからである。
現行「宗憲」は1981年に公布・施行された。「宗憲」改正は同朋会運動の成果の一つとして認識されているが、改正に法学の観点から関わった人物がいる。法社会学者の川島武宜(1909~92)である。川島の提言は、今日の教団組織の問題を考える上でなおも大きな意義を有している。「宗憲」改正が求められた歴史的経緯とともに「宗憲」改正過程における川島の提言内容を見てみよう。
「宗憲」改正の議論は、断続的に行われていたものの、「開申事件」と呼ばれる出来事を機に大きく進展する。69年4月24日、当時の法主であった大谷光暢が管長職を大谷光紹に譲ると発表する。管長の推戴について、宗務総長であった訓覇信雄は、法規上、内局の承諾を得るべきであるとし、この要求を拒否する。
両者の溝は埋まらず、事件を契機に、かねて教団の封建性の脱却を唱えていた当時の内局を中心とした改革派と法主を中心とする伝統派との対立が顕在化することとなる。事件は、大谷派の管長、法主がその意思を宗務当局に伝える文章である「開申」に由来する形で「開申事件」と呼ばれることとなる。
「開申事件」以降も、不渡り手形の乱発や教団財産の売却問題などで対立が続く。改革派は、行政の権限を法主・管長から宗務総長へと移管することで事態の収拾を図ろうとした。改革派と伝統派の双方が認識していたように、対立は、宗教法人・真宗大谷派の代表役員の法的地位を巡る問題であると同時に、教団内部で法主の地位をどのように位置づけるべきかという教義解釈を巡るものでもあった。こうして教義面・行政面の双方に関わる「宗憲」改正の議論がなされることとなる。