《宮沢賢治没後90年㊥》土偶坊(デクノボー)という理想像(1/2ページ)
身延山大講師 岡田文弘氏
宮沢賢治(1896~1933)が『法華経』の篤信者であった事実は広く知られている。その篤信ぶりの中でも特に有名なエピソードは、かの名詩「雨ニモマケズ」を『法華経』、その中でも第20章にあたる常不軽菩薩品を下敷きにして書いた……という逸話だろう。
常不軽菩薩品の粗筋をまず見ておこう。昔々、仏法が形骸化してしまった「像法」の時代に、ひとりの小僧が現れた。この小僧は読経もせずに、ただ辻に立っては「私はあなたを深く尊敬し、けっして軽んじません。なぜなら、あなたは菩薩の道をあゆみ、いずれ仏と成られる方だからです(我れ深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」と誰彼なしに呼びかけて礼拝するのだった(但行礼拝)。この口癖から「常不軽菩薩」(常に軽んじない菩薩)とあだ名されるようになった彼は、評判がすこぶる悪かった。なんとなればその当時、仏法は形骸化していたわけで、誰も本気で成仏など目指していなかったのである。そんなところに「あなたもいずれ仏に成る」と唐突に言い迫ってくるものだから、「余計なお世話だ、不審者め!」と衆人は反発したのだ。
こうして疎んじられ、時には石まで投げつけられて追い払われた常不軽菩薩だったが、逃げのびながらも一向めげることなく礼拝行を続けた(「瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高声に唱えて言わく《我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし》と」)。その甲斐あってか彼は、後に『法華経』を体得し、更に神通力も得て、寿命も延ばしたのだという。この常不軽菩薩こそ、釈尊の前世(の一つ)であったそうな……。まさに、全ての者の成仏を説く『法華経』の精神を体現したような菩薩、それが常不軽菩薩なのだ。
この常不軽菩薩こそ「雨ニモマケズ」のモデルらしい、と言われているのだ。たとえば『法華経』の解説書の類には、好んでそう書かれている場合が散見される。とはいえ「雨ニモマケズ」の文中に、常不軽菩薩の名前がハッキリ出てくるわけではない。しかも礼拝《だけ》が任務の常不軽菩薩とは違って、「雨ニモマケズ」が描く人物は子どもを看病したり、老母の農作業を手伝ったり、瀕死の人を慰めたり、喧嘩の仲裁をしたりと(「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」)、実に多様で具体的な人助けを行なっている。その有り様は「不軽菩薩よりむしろ、観音菩薩の救済活動に近いのではないか?」という意見すらある(田口昭典『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について』星雲社 参照)。
とはいえやっぱり、「雨ニモマケズ」のモデルは不軽菩薩なのである。つとに知られているように「雨ニモマケズ」は遺品の手帳の中に走り書かれていた作品だが、その手帳の数十ページ後を見てみると「土偶坊(デクノボー)/ワレワレカウイフモノニナリタイ」と題された戯曲の腹案が、これまた走り書かれている。言うまでもなく、この題は「雨ニモマケズ」の末尾「ミンナニデクノボートヨバレ……サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」からきている。つまり賢治は「雨ニモマケズ」の詩を更に戯曲に仕立て直して舞台にかけようと目論んでいたのであり、今風に言えばメディア・ミックスを企画していたわけだ。
その戯曲「土偶坊」の第3幕には、主人公が石を投げつけられる場面が出てくる(「土偶ノ坊 石ヲ投ゲラレテ遁ゲル」)。これはまさしく先にも見た、衆人に石を投げつけられる常不軽菩薩の姿に他ならない。したがってここから遡って、原作である「雨ニモマケズ」の構想にも常不軽菩薩の影を見出せる……という次第だ。