《宮沢賢治没後90年㊥》土偶坊(デクノボー)という理想像(2/2ページ)
身延山大講師 岡田文弘氏
ところでこの「土偶坊」という表記、けっして「木偶坊」の誤植ではない。「デクノボー」をわざわざ「土偶坊」と書いて《土》を冠したところに、賢治が重視しつづけた「土の生活」つまり農民の生活を見ることができるからだ(渡邊寶陽『宮澤賢治と法華経宇宙』大法輪閣 参照)。
そして《土》の字には更に、『法華経』に登場する菩薩の中でも常不軽菩薩と同等に重要な「地涌菩薩」を重ねることもできる。地涌菩薩とは『法華経』の後半部に登場する菩薩の集団で、釈尊の久遠の昔からの愛弟子たちであり、未来の世界に同経を広める任務を負うとされる。そんな高貴な大菩薩たちなのだが、神々しく天から降臨したりもせず、普段は「縁の下の力持ち」として地底におり、いざという時には大地を裂け割って出現するため「地涌」(地より涌き出る)の名がある。まさに、「此の土は安穏にして」(如来寿量品第十六)と説いて現実世界をこそ仏国土と見なそうとした『法華経』ならではの、地に足のついた、そして土に根ざした菩薩たちである。
この地涌菩薩を自身の拠りどころとした仏教者が、賢治も尊敬していた日蓮(1222~1282)だった。日蓮は、釈尊の遺志をつぐ地涌菩薩の一員として、そして時にはその加護を受ける者として『法華経』を広めるとの自覚を持っており(「地涌千界の一分にして、加備を蒙る行者なり」『以一察万抄』)、更には自身の活動である《南無妙法蓮華経の題目を大衆に広める》という布教方針を地涌菩薩の任務として標榜していた(「地涌菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」『観心本尊抄』)。
ともかく地涌菩薩を標榜していた日蓮だが、彼も賢治と同様、常不軽菩薩にも心を大いに寄せていた。日蓮は、常不軽菩薩と自身の境遇は「全く同じ」と言い切った上で、常不軽菩薩を「初随喜の人」、自身を「名字の凡夫」と呼んだ(『顕仏未来記』参照)。「初随喜の人」とは『法華経』を初めて聞き、喜びの心を起こしたばかりの人、という意(確かに常不軽菩薩は、読経もやれない素人同然の行者だった)。「名字の凡夫」とは仏法の名を耳にしたばかりの者、という意。つまり「初随喜の人」も「名字の凡夫」も、どちらも初心者中の初心者のことであり、まだ何も身についておらず何もできない……賢治の言葉を借りれば、まさに「デクノボー」そのものの人物像である。いわば日蓮は、常不軽菩薩も自分も「デクノボー」同士である、と高らかに宣言したのだ。
無論、この日蓮の宣言は卑下ではあり得ない。なんとなれば日蓮は高弟への手紙の中で、「初随喜」の心とは仏道における「宝篋」すなわち「宝箱」であると賛嘆し、そんな宝箱のような心を《名字の凡夫》こそが抱いているのだ、それが『法華経』の真意なのだ……と断じている(『四信五品抄』)。つまり『法華経』が求める菩薩の理想像とは、難解で高尚なる行学を修めたエリートなどではなくして、ただただ礼拝を行じて雨ニモマケズ風ニモマケズに歩いた常不軽菩薩の姿……つまり初心のままで愚直に生きる「デクノボー」の在り方であったのだ。その「デクノボー」たるありさまに、日蓮はただただ題目を広めた自身の姿を重ね、賢治は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と嘆じたのであろう。
土の下から現れた地涌菩薩を標榜しつつ、常不軽菩薩と自身をともに「デクノボー」(初随喜の人/名字の凡夫)と見立て、重ね合わせた日蓮……かくして日蓮が描き出した『法華経』菩薩の理想像(地涌菩薩と常不軽菩薩のハイブリッド)が、「土」の字を冠した「土偶坊(デクノボー)」という、賢治独特の表記に受け継がれていると見える。そんな土偶坊(デクノボー)にワタシもナリタイと、筆者も僭越ながら思うばかりである。