《宮沢賢治没後90年㊤》宮澤賢治と法華経信仰(1/2ページ)
立正大仏教学部教授 安中尚史氏
今年で没後90年をむかえる宮澤賢治は、熱心な仏教信仰をもって詩や物語を創作していたが、そのよりどころとなった教えは法華経であり、この法華経を絶対の教えとして鎌倉時代に衆生救済を目的に活動した日蓮の行動と思想であって、その橋渡しをおこなったのが田中智学であった。
賢治は明治29年、岩手県花巻で質店と古着商を営む裕福な家に生まれ、何不自由のない生活を送っていた。父親の政次郎は堅実に家業を営みながら仏教に強い関心をもち、「花巻仏教会」の運営を担い、家の宗派である真宗大谷派の僧侶のみならず、他宗派の僧侶を招いて講習会を開催していた。母親のイチも慈悲深く、善根をほどこすために生まれたと、周囲からいわれるほどの人であった。また、賢治の伯母(父親の姉)も熱心な仏教信仰をもつ人で、幼い賢治を寝かしつけるときに、親鸞の「正信偈」を読み聞かせていたという。
このように、仏教の信仰が満ち溢れるほどの環境の中で育った賢治は、一流の仏教者と接しながら成長を果たしていった。先に記したように、父親の政次郎は「花巻仏教会」の運営に携わり、近隣の大沢温泉で毎年「夏期講習会」を開催した。講師として近角常観、暁烏敏、多田鼎、村上専精、島地大等ほか、当時活躍する仏教者を招き入れていたが、その中でも、特に真宗大谷派の暁烏敏とは昵懇となり、家族ぐるみの付き合いをしていた。
この暁烏敏は、清沢満之に師事して宗門の改革運動に参加したことで、在学していた真宗大学を退学させられたが、翌年復学して卒業を果たした。その後は仏教の近代化を目指して清沢が主宰した浩々洞に加わり、また雑誌『精神界』の編集に携わるなど、真宗大谷派のみならず近代仏教に大きな影響を与えた人物であった。
この暁烏敏と宮澤家の交流は、明治39年7月に暁烏が花巻を訪れてからはじまる。政次郎に出迎えられた暁烏は、まず浄土真宗本願寺派の光徳寺で『歎異抄』の講義などを数日間にわたって実施し、連日、100人をこえる聴衆を集めた。その後は大沢温泉に場所を移して夏期講習会の講師を務めたが、その間に宮澤家とひとときを過ごし、子供たちとも遊ぶなどし、その際に賢治は暁烏のそばを離れなかったという。
賢治はこうした暁烏との関係によって、明治45年に政次郎へ宛てた手紙の中で「小生すでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記し、阿弥陀如来を信じて念仏を専らにすることを宣言している。
さらに、賢治は夏期講習会の講師として招かれた浄土真宗本願寺派島地大等から、その後、「法華経」という賢治の生涯を決定づける、大きなものを手に入れた。夏期講習会の後に島地の寺へ幾度も足を運び、天台宗の法華教学に関する話を聞き、大正4年9月頃に島地編著の『漢和対照妙法蓮華経』を読み、法華経に直接触れることとなった。
以後、賢治は法華経の内容を徐々に理解するにしたがって、その本質を知ることとなり、生涯を捧げる決意をするに至った。大正7年2月、父親の政次郎に宛てた手紙の中で、「私一人は妙法蓮華経の前に御供養願上候」とし、法華経信仰に転じる決意を述べている。さらに翌月になると両親に対して「既に母上は然く御決心され、父上も昨日は就れかと御考へなされ候程に御座候へば、何卒何卒御聞き届け下され度候」と、法華経信仰へ導く内容で手紙を書いている。
こうして、宮澤家の宗旨である浄土真宗から、法華経信仰へと邁進した賢治だが、法華経を読んだり島地を介して得た知識だけで宗旨を変更したわけではなく、国柱会の田中智学と出会い、さらに田中をとおして日蓮の行動と思想に触れた結果のことであった。