《宮沢賢治没後90年㊤》宮澤賢治と法華経信仰(2/2ページ)
立正大仏教学部教授 安中尚史氏
田中智学は、明治中期から昭和初期にかけて、日蓮を信奉して在家の立場で活動し、仏教界にとどまらず広く日本社会に影響を与えた。はじめは日蓮宗の僧侶として活動していたが、明治政府の宗教政策に対する日蓮宗の方針を批判して還俗を果たし、日蓮門下の近代化を主張しながら多岐にわたる活動を展開した。
さらに、日蓮主義を掲げて日蓮の法華経に基づいた思想を、宗教・信仰の枠をこえて政治・経済・文化・芸術などと連関させながら、国体思想が盛んになった社会に反映させる主張を展開した。田中の日蓮主義に反応した人物は実に多岐にわたる。政治家・軍人・思想家・芸術家・僧侶などが直接的にも間接的にも、田中の影響をうけてそれぞれの活動を展開したが、その中のひとりに宮澤賢治がいる。
宮澤賢治が田中智学の存在を認識しはじめた正確な時期は不明であるが、先に記した賢治の信仰にかかわる経緯を見直すと、大正4年9月に『漢和対照妙法蓮華経』と出会ってから、大正7年3月に父親の政次郎へ法華経信仰に転じることを求める内容の手紙を出しているので、この間であることは間違いないであろう。その詳細な時期を特定することは難しいが、賢治が友人に宛てた手紙や作品の内容から、信仰の変化、つまりは田中の影響をうけている様子を捉えることができる。
大正5年4月、賢治が友人の高橋秀松に宛てた手紙に、浄土真宗の教えと法華経の教えの違いについて言及し、その問題に悩んでいることが書かれている。さらに大正6年7月に発行された同人誌『アザリア』の中で発表した短歌の内容から、法華経に対する理解が進んでいることがうかがい知れる。憶測の域をこえないが、遅くとも大正6年中には国柱会の田中智学に出会い、さらに田中を介して日蓮の行動と思想に接したことにより、一気に自身の転宗に関する告白と、両親にも転宗を求める動きへ突き進んだのではないか。
実際に賢治が直接に田中智学と会ったのは、大正8年初旬になってからで、それは東京に住む妹トシの入院に伴い母と二人で上京した際に、国柱会本部で田中の講演を聞いたときのことで、さらに大正9年11月頃、賢治は国柱会に入信した。
先にも述べたように、日蓮主義を標榜して日蓮門下のみならず、社会に影響を与えていた田中智学は、この時期に日蓮門下統合に関して活発な活動を展開していた。大正10年の日蓮降誕七百年をひかえ、日蓮宗をはじめとした出家教団の間にあって、その中心に存在していた。
田中智学は著作で当時の日蓮門下の各宗派について「今こゝに謂ふ所の日蓮主義から見ると、總じて同一轍のもので、その異議別意の各主張は、畢竟発展途上の波瀾に過ぎないわけだから、分裂分裂などいふことは、過去の道程で、今日となッては、無條件に解消されて、一大日蓮の下に還元して一つとなッて動くべき筈である。」と述べ、日蓮主義に基づく門下統合活動をおこなっていることが理解できる。
宮澤賢治は、田中智学が門下統合にむけて奔走している時期に出会ったことは確かであるが、果たしてその行動をどれほどに知っていたのかは不明である。厳密にいえば、賢治の生きた時代も現在も「日蓮宗」といえば一つの宗教団体の名称で、行政的にも文部科学省(文部省)の管轄下に置かれている組織を指すが、法華経をよりどころとして生きた日蓮の行動と思想に基づいて組織された宗派を、ひとつの「日蓮宗」という概念で捉えることが一般的といえよう。そうであるならば、門下統合はそれぞれの門下に深くかかわらない人々にとって、どれだけ重きを置くこととして位置づけていたのか。
こうしてみると、田中智学の掲げた日蓮主義は、日蓮門下が設けていたそれぞれの枠を取り払ってしまう考えであり、そこをとおして日蓮と出会った宮澤賢治は、日蓮門下がどれほどに分かれて組織化していることは、さほどに大きな問題ではなかったのであろう。賢治の関心としては、やはり法華経と日蓮が中心であった、自分との橋渡しをしてくれるのが、田中智学であったのではないか。