セーフティネットとしての四国遍路(1/2ページ)
鳴門教育大名誉教授 大石雅章氏
はじめに
古代に「僧の修行としての四国辺路」として成立した四国遍路は、近世では「民衆の巡礼としての遍路」へと変化して現在に至り、社会における役割も変遷してきている。本稿では、近世の四国遍路の特徴を、民衆救済という視角から考察する。
社会学者の前田卓は、天明(1781~89)・天保(1830~44)の飢饉における巡礼者数に関して、四国遍路と西国巡礼とを比較検討した。その結果は、飢饉において西国巡礼では寺院への納札が激減し、皆無となる場合もあるが、四国遍路では遍路過去帳の人数が急増することを明らかにした(『巡礼の社会学』)。調査対象が納札と過去帳で異なり、安易な比較は避けなければならないが、前田が指摘するように飢饉における巡礼者数は、四国遍路では急増するが西国巡礼では激減し全く異なっていた。すなわち飢饉における巡礼者数急増に四国遍路の特徴を見いだすことができる。
阿波国早渕村(現徳島市)の組頭庄屋(大庄屋)後藤家文書においてもその管轄地域(半径3㌔四方)の病死遍路数は天保飢饉において急増し、天保8年には17人、天保9年には16人に及んでいる。さらに天保8年・同9年の病死遍路のうち、それぞれ6人が家族連れであり、後藤家文書に記載された病死遍路162人の内、40人が家族連れであった。四国遍路は家族連れで流れてきた遍路が全体の4分の1を占めている(町田哲「遍路をめぐる三つの肖像」『部落問題研究』226、井馬学「徳島藩の遍路対策と村落の対応」『四国遍路の研究Ⅱ』)。
和泉国村方調査で、生活困窮者が在所から一時的に離脱して四国遍路に出る状況が分かってきた。寛政2(1790)年、池上村(現和泉市)の奥右衛門一家6人が、生活困窮のために四国遍路に出るが、翌年に無事帰村している。また寛政12(1800)年に七兵衛女房も同じく四国遍路に出るが6年後の文化3(1806)年に帰村している。このように生活困窮者は、再起のために四国遍路で命をつないでいる(齊藤紘子「近世和泉の村落社会における「困窮人」救済」(『近世身分社会の比較史』)。和泉国池田下村の忠兵衛一家が困窮により四国遍路に出るに当たって庄屋高橋氏に宛てた手紙は、将来の帰村のことも念頭に置いた内容となっていた。また四国遍路に出ると申し出ながら、実際は他所で日雇いによって生計を立てていた場合も指摘されている(町田哲前掲論文)。このように夜逃げ同然の形で一時在所から没落した困窮者が、生活の再建を目指して四国遍路に一時的に逃避していたのである。
和泉国は西国4番槇尾山施福寺が存在し、また熊野街道が通り、西国巡礼や熊野参詣の道筋であった。にもかかわらず和泉国の生活困窮者は、身近な西国巡礼や熊野巡礼ではなく、四国遍路を生活再建の命をつなぐ場として選んだのか、また他所の生活であっても四国遍路に出るとしたのか。おそらく和泉地域において四国遍路が困窮によって在所から離脱して生活再建を目指す所として広く認識されていたからであろう。
生活困窮者が四国遍路で命をつなぎ再建を目指す姿は、和泉国に限られるものではないのではと考える。現在のところ史料で確認できていないが、四国を囲む本州・九州の他の地域でも見られた現象であったのではないか。そうであるならば近世における四国遍路は、西日本における生活困窮者のセーフティネットとしての巡礼であったと言えよう。