セーフティネットとしての四国遍路(2/2ページ)
鳴門教育大名誉教授 大石雅章氏
四国遍路がセーフティネット機能を有する巡礼として選ばれた理由として、四国は瀬戸内海等の穏やかな内海を挟んだ本州・九州と人的・物的・文化的な交流が活発になされながらも、海で分断された島国という辺地としての空間認識が、古代から形成されていた。それゆえに四国遍路は、日常的空間から切り離された非日常空間として認識され、社会関係を断ち切るアジール的機能を持ち得ていたと考える。
セーフティネット機能の背景には、四国遍路の歴史の中で築き上げてきたお接待文化がある。古代以来修行僧は、自らの験力を修めるために、空海の誕生・修行の地である四国を目指した。平安末期の後白河院編纂『梁塵秘抄』に「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負い、衣はいつとなく潮垂れて、四国の辺地をぞ常に踏む」(301)と、修行僧の姿が象徴的に詠まれている。また『今昔物語集』にも「四国の辺地と云は伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻りである」(巻31の第14)とあって、現在の四国遍路の原型が平安時代に「僧の四国辺路修行」として成立していたことがわかる。
天台の高僧長増が四国に渡った話は「伊予・讃岐の両国に乞匃をして年来過しつる也(中略)只日に一度人の家の門に立て乞食を為れば、門乞匃と付たる也」(『今昔物語集』巻15の15)と、修行僧は乞食行で命をつないでいたことを伝える。このように修行僧の乞食行を支える文化が四国に広く定着していた。
16世紀以降には、僧のみならず一般の人々が四国遍路を巡礼する史料が登場し、江戸時代に民衆の巡礼として四国遍路は発展する。巡礼の目的も多様化し、その目的の一つに困窮者による生活再建があった。しかし納札には「同行二人」と記し(真念『四国邉路道指南』〈1687〉)、空海とともに修行する者とされた。
生活困窮者の巡礼が成り立つためには、修行僧の乞食行を支えたお接待の伝統が、民衆の巡礼に継承されていることが不可欠である。四国遍路開創伝説として知られている衛門三郎伝説は、強欲な衛門三郎が空海の乞食行を拒みその鉢を割るという行為によって、息子が相次いで亡くなるという仏罰を蒙り、その過ちを悔い空海を訪ねて四国を廻る話である。この開創伝説で注目したいことは、乞食行へのお接待の拒否は仏罰の対象となるというメッセージである。時代は下るが高群逸枝は自らの遍路体験をまとめた『お遍路』(中公文庫)に「遍路の不文律としては、日に5軒修行しなければ、遍路と言えないそうである」と記し、四国遍路修行は乞食行を指す言葉となっている。藩による乞食遍路への取り締まりを経ながらも、お接待文化の中で乞食行は「修行」として生命を持ち続けてきた。
おわりに
近現代の社会では、生活困窮者への救済は、福祉の立場から主として公的機関の政策として実施される。ちょうど近世は、前近代から近代へと緩やかに移行する時期にあたり、幕府や諸藩によって生活困窮者への公的な対策が実施され始める。しかし一方で修行者への奉仕や貧者への利他という行為が善根となる仏教思想に基づく救済活動がまだ生命を持ち続けていた。四国遍路は困窮者が日常の諸関係を一時的に断ち切り生活再建をめざす場としての機能も果たしたと考える。なお生活再建が達成できた遍路の割合は分からないが、重要なことは、四国遍路は死出の旅路ではなく、生きることをめざす巡礼であった。