チベットでの貨幣流通の歴史(1/2ページ)
インド・ニンマカレッジ客員教授、浄土宗高徳寺住職 矢田修真氏
元と明の時代、チベットは中国の一部であり、中央政府はチベットでも一連の行政制度を施行していた。内地の貨幣は、宗教の上層部、政府の歳出、軍人の俸給、宿駅、恩賞、商業貿易などの大口取引に使われた。秤量貨幣の銀を使用していたが、品質の鑑定は容易でなく、そのため16世紀中ごろから入ってきた外国の銀貨が主要な貨幣として流通するようになった。そして清の時代、チベットで貨幣が鋳造されるようになっていった、その流れを追ってみたい。
元朝は、チベットを中央政府の一元管理下に置き、宣政院を設けチベットの事務を一手に管理した。銀と交換できる紙幣「宝鈔」「交鈔」「銀鈔」が発行され、社会で最も重要な通貨となり、銀と同時に流通した。『元史』食貨・鈔法には、「中統元年に交鈔が発行され始めた。交鈔は絹を交換単位として、銀50両を絹1千両と交換……。この年の10月にさらに中統元宝鈔が発行され、……1貫は交鈔1両に相当し、2貫が銀1両に相当した」とある。
元王朝は何度も金銭法を改正したが、元の終わりにもっとも広く流通し、最も長く使われたのは、中統と至元の2種類だった。至元通行宝鈔は幅19㌢、長さ27㌢。「弐貫」の額面、穴あき銭の図案があり、偽造者は死刑、告発者には銀5錠と犯人の財産を与えると印刷されている。
チベットでは、元朝によって残された銀のインゴットだけでなく、1959年にはサキャ寺で至元通行宝鈔と中統元宝交鈔が各1枚発見された。元朝がチベットで中央政府の制定した通貨制度を推し進めていたという明らかな証拠である。
紙幣の交換比には規定があり、一定の換算率を維持するために、平準庫を開設して紙幣の価値を調整した。しかし発行が多くなりすぎ、さらに偽造も発生したため、もとの比率を維持することができなくなり、最後には紙幣は人々の信用を失った。これにより銀の使用が次第に広範になっていった。
元の中央政府は大量に銀を調達し、チベットに対する統治を強化しただけではなく、チベットの通貨制度を変えて、チベットの上層部から庶民まで全て中央政府の公布施行する通貨制度を守るようにさせた。それ以来、チベットでは金は次第に貨幣の主流から退き、銀が主要な流通貨幣になった。
銀は秤量貨幣であるため、衡(重さの基準)の制定が極めて重要となった。『論語』の中に、「はかりやますを統一し、制度を細かく定めれば、天下の政治は正しく行われる」と論断されている。チベットの古い典籍『西蔵王統記』にも、ソンツェン・ガンポが「度量衡を定め……偽りの度量衡を使うなかれ」との法令を公布したという記録がある。度量衡は国の経済と人民の生活に深く関わるため、歴代統治者は度量衡の統一を強行し、それによって政治を安定させ経済を発展させてきた。
1368年に建国された明朝では、中央と地方の政治機関が改革され、中央集権が強化された。明政府でも度量衡の管理をきわめて重視した。洪武から嘉靖の200年の間に、度量衡の法令公布は20回近くに及んだ。
清は1644年、首都を北京に定めて、政府機構はほぼ明の制度を踏襲した。清朝は銀と硬貨を併用したが、銀を重んじ貨幣を軽視した。それでもなおチベットには銅銭が流入していた。
ネパールでは1世紀から12世紀まで、土邦(小さい国)が林立していた。ネワール人の大部分は仏教を信奉したが、支配者の大部分はヒンドゥー教徒であった。ネワール人は農業を主とするが、商いにもたけており昔からチベット地区と取引をしていた。