チベットでの貨幣流通の歴史(2/2ページ)
インド・ニンマカレッジ客員教授、浄土宗高徳寺住職 矢田修真氏
1559年、ドラヴィヤ・シャハはグルカ地方を奪取し、自ら王となりグルカ王国を建国した。この頃のチベットの少額貿易は砕銀(ばらばらの銀)を使い、大口貿易は主に銀錠(馬蹄銀、銀のインゴット)を使っていた。ネワール人との貿易で、チベットの商人は、当地の砕銀や銀錠を使うよりも、ネパールの銀貨を使う方が便利だと知った。銀貨は固定の重さとレートを持っているため、取引のたびに重さを量ったり、分割したり、品質を鑑定したりといったことが不要だからである。
一部のチベット商人は砕銀と銀錠をネパール銀貨に両替して、少額の貿易で使うようになり、利便性が大いに向上した。同時にネワール商人も直接硬貨を使ってチベットで羊毛、皮革、麝香、ホウ砂、黄金などを買うことができた。チベットに流れ込むネパールの銀貨が増えるにしたがって、ネパール銀貨はチベットで流通する貨幣の一つとなった。
ネワール商人は毎年春、特産品と日用品だけでなく、多くのネパール銀貨を携えてチベットに来た。彼らは銀貨を銀に交換し、ネパールに持ち帰って銀貨に鋳造した。銀銭貿易(銀と銀貨の貿易)は増加の一途をたどり、チベット地方政府も黙認したことから、規模は一層拡大し、やがてチベット地方政府とネパール商団の間での大規模な銀銭貿易に発展した。
大量の利潤を得たネワール商人は飽くことを知らず、混ぜ物の比率を増やし貨幣の質を低下させた。1750年頃には銀の含有率はわずか50%になっていた。この種の悪貨が大量にチベットに送られ、依然として同じレートで交換されたため強烈な不満を引き起こした。その後鋳造された銀貨は比較的良好で銀の含有量も高かったが、新旧の貨幣が同時に流通することで混乱が起きた。商人は使用を渋り、貿易を正常に行うことができなくなった。
チベット地方政府は、旧貨幣の回収を試みたが、直ちに解決することはできず、政治上の要因も加わり88年のグルカによるチベット辺境の侵犯、91年の大規模なチベット侵略戦争が引き起こされた。そこで清の政府は迅速に軍隊を招集して、侵略軍を国境外に追い出した。ここに至って清朝の中央政府は、本土の制度に従ってチベットに造幣局を設立し始め、2世紀続いたチベットとネパールの銀銭貿易は終わりを告げた。
47~48年、グルカ王国が三つの土邦とチベットの貿易の商道を切断した。ネパール商人の数は次第に減っていき、彼らが運んでくる鋳造硬貨もますます少なくなっていった。銀貨の不足は貿易に深刻な影響を与え、摂政デモ・フトクトは63(乾隆28)年と64年に便宜的な措置として銀貨を鋳造した。これがチベット地区で最初の造幣である。
チベット政府の第1回の鋳造銀貨には、両面に繰り返しサンスクリットの「ランツァ」の文字が鋳込まれており、多いものでは16字あり、3種類の版があった。
75~77年の間、グルカはもっぱらチベット向けに大量の粗悪な銀貨を鋳造した。銀の含有量は3分の2から2分の1で、グルカでさえこの貨幣が本国で流通することを禁止した。その後、グルカの鋳造貨幣が改善されたが、チベット商人は受け入れず、チベット地区で銀貨が不足する事態をもたらした。そこでダライ・ラマ8世は85(乾隆50)年、商上(清朝のチベット財務機関)に貨幣の鋳造を命じた。これも便宜的な措置であったため、鋳造はわずか1年で終了した。
91(乾隆56)年、乾隆帝は詔書を公布し、駐蔵大臣にグルカを討伐させた後、内地の例にならいチベットに鋳造炉を設置し、職人を派遣し制銭を鋳造させた。グルカ戦争の間、グルカ貨幣のチベット流入は滞り、チベットの銀貨は急激に減少した。商業貿易にもチベットに駐屯する清朝軍への供給にも影響を及ぼした。このためチベットに駐屯する清朝軍副都統の成徳は乾隆帝に上奏した。今後チベットに兵を駐屯させ続けるには大量の銀貨が必要であるため、一時的に「以前デモ・フトクトが鋳造させた様式にならい、商上に暫定的に鋳造させられたし」と。同時にチベット地方政府に第3次の貨幣鋳造を開始するよう命じた。この時鋳造した貨幣に、初めてチベット文字でチベット暦の年数が入った。