『隠された十字架』をめぐって(1/2ページ)
早稲田大名誉教授 大橋一章氏
去る1月12日に梅原猛氏が白玉楼中の人となられた。93歳であった。心より御冥福を祈りたい。
梅原氏といえばやはり『隠された十字架―法隆寺論―』(昭和47〈1972〉年)であろう。50年近い昔の大学院時代にこの本を手にすると一晩で読んでしまった。推理小説のような面白い本であった。しかし読みながら、ここはおかしい、これは事実ではないと思ったページの下端を折っていくと、読み終わったとき本の上より下の方がはるかに厚くなっていたことがなつかしい。
梅原氏ははじめに日本人なら誰でも知っている聖徳太子と法隆寺に対する常識を打ち破ることを宣言し、読者の期待を掻き立てる。誰もが度肝を抜かれたのは、聖徳太子の怨霊なるものを取り上げたことであろう。聖徳太子の怨霊など考えたこともない読者は思わず「ええっ」である。「釘を打つのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである(中略)身体に釘を打つことは、日本人にとってまさに最大の冒瀆行為であったわけである。今ここに仏像の頭の真後ろに太い釘がうたれている。しかもその仏像は、救世観音という尊い名で呼ばれ、聖徳太子御等身の像、すなわち太子御自身であるというのである」と、刺激的な語句を連発して畳みかける。古代史や仏教美術史の専門家でなければ「そうなのか」とつい納得してしまう。
さらにつづけると、再建された法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込める寺院で、中門の中央の柱は聖徳太子の怨霊を外に出さない、つまり封じ込めるためのものと解する。聖徳太子の長男山背大兄一族を殺害した黒幕は中臣鎌足で、息子の藤原不比等は聖徳太子の怨霊を恐れ、怨霊を封じ込めるために法隆寺を再建したと主張するのである。
たしかに聖徳太子と法隆寺を結びつけ、怨霊をキーワードにした学説を発表した人はいなかった。研究者も一般読者も、つまり日本人の誰もが一瞬虚を突かれたと言ってもよいのである。一般読者は素人であって研究はできないので、自ら梅原説を批判する能力はない。彼らは梅原説にひたすら驚き、畏れ入るのである。もっとも梅原氏が大学教授で、上山春平という研究者を認識の友と表明することで、本書の信を一層高める効果があったことは言うまでもなかろう。その結果、怨霊をキーワードに聖徳太子と法隆寺の関係を興味深く解き明かす『隠された十字架』は何万何十万の日本人を虜にし、支持者を増やし空前のベストセラーとなったのである。
こうなると、私の周りでもこれまで歴史家は一体何をしていたのかと非難がましい声が聞こえてきた。本書を読んだ昭和47年7月ごろ古代史研究者や古代美術史研究者と本書を話題にすると、異口同音に前者は奈良時代には怨霊を恐れる認識はまだないことを、後者は救世観音像の頭部に光背を釘で打ちつけている事実はないことを表明した。いずれも梅原説に批判的な人ばかりで、支持する人は一人もいなかった。