『隠された十字架』をめぐって(2/2ページ)
早稲田大名誉教授 大橋一章氏
私が『隠された十字架』を読み話題にしていた直前と言ってもよい昭和47年の6月20日、21日の『東京新聞』紙上に、すでに田村圓澄氏が「『隠された十字架』に反論する」を発表していた。田村氏は梅原説のキーワードである怨霊について、聖徳太子の死後1世紀以上のあいだ、太子が怨霊となったことを裏付ける文献史料は存在しないこと、また日本史の上で、祟りや物の怪が登場するのは藤原氏による政権の独占、すなわち他氏族排除が露骨になる9世紀以降であることを指摘する。さらに田村氏は7、8世紀に目を向けると、蘇我馬子に殺された物部守屋・崇峻天皇、中大兄皇子に滅ぼされた蘇我蝦夷・入鹿・古人大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂・有間皇子があり、持統天皇に処刑された大津皇子、謀叛の罪に問われた長屋王の事件もある。しかしただの一人でも死霊となり、殺戮者に復讐したであろうか、と問うのである。また山背大兄一族殺害の中心人物は言うまでもなく山背大兄その人で、この事件は聖徳太子の死後のことであるにもかかわらず、山背大兄が怨霊とならないで、直接の被粛清者でもない聖徳太子が怨霊となったのはなぜか。これについて梅原氏は何も言及していないため、田村氏は厳しく衝くのである。
田村氏は法隆寺の従来の研究は建築・彫刻・工芸と部門ごとに深められてきたが、総合的視点が失われていることの反省をふまえ、梅原氏が法隆寺を建てた人間の意志に焦点をあて、芸術理解の方法を示したことには敬意を表さねばならないと述べる。その通りであろう。田村氏は太子崇拝・太子思慕の時流の中で法隆寺を考えるべきことを主張した。
田村氏の反論は梅原説の大前提が誤っていることを実証した批判であった。梅原氏が『隠された十字架』が学術的研究だと言うなら、田村氏の反論に何らか答えるべきであろう。
翌昭和48年に坂本太郎氏が「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』300号)を発表している。坂本氏は、まず『古事記』と『日本書紀』はともに藤原不比等がつくったものとする梅原説に対し、驚くべき新説でそのようなことを示す史料はもちろん残っていないし、そもそも両者はつくられた由来も異なり、性格も違う書物であることをあらためて示す。また舎人親王が主宰した書紀編集事業に不比等が与った可能性はほとんど絶望的であることも指摘する。さらに法隆寺金堂の薬師像光背銘と釈迦三尊像光背銘の解釈が恣意的であることを根拠をあげて批判する。このほかにも奈良時代末から平安時代にかけて、四天王寺僧敬明の『上宮太子伝』、東大寺僧明一の『聖徳太子伝』、唐僧思託の『上宮皇太子菩薩伝』、『太子伝補闕記』、『聖徳太子伝暦』が成立するが、これらの太子伝記はいずれも太子を聖者としてその徳を讃え、あるいは南岳慧思禅師の生まれかわりとし、その死霊が後人を悩ましたことを書いたものは一つもないことを断言する。
また直木孝次郎氏も「わたしの法隆寺」(『ぽっぽ』1974年5月)で梅原説に賛同できないことを田村・坂本氏と同じく縷縷批判する。あまり知られていない竹山道雄氏の中門の柱は入る人を拒むためのもの、つまり梅原説の逆であることを紹介する。学生のころ竹山氏の『古都遍歴』を読んだとき『ビルマの竪琴』の作者はこんなことも書くのかと感心した記憶があるが、中門の柱云々は個人の感性の問題で研究ではあるまい。
『隠された十字架』が世に出てもっとも楽しんだのは一般読者で、彼らは最大の支持者であった。研究者で支持した人を私は知らない。美術史研究者は梅原説を完全無視してきたが、日本史研究者は先述のように3人の批判者について紹介した。梅原氏は「私の著書に対する反論は、すべて部分に偏している」(『聖徳太子』一)とうそぶく。これでは論争にならないのである。『隠された十字架』が『古寺巡礼』や『大和古寺風物誌』の類書であれば、研究者が反論を書くこともなかった。梅原氏は過激な語句を使って挑戦しすぎたようだ。しかし従来の法隆寺研究が部門別であったことを思えば、総合的視点が必須であることを示した梅原氏には心より敬意を表したい。