激動期の禅僧 徹翁義亨(2/2ページ)
花園大名誉教授 竹貫元勝氏
一の徹翁の門弟に依る住持相承は、徳禅寺と大徳寺が大燈国師―徹翁の師資の法系に依る継承となり、徹翁の一流相承刹になったことを意味する。これは厳密に見ると大徳寺住持制度の変更である。宗峰妙超の一流相承刹では、大燈国師の法系にある弟子のいずれにも住持資格があったのに対し、大燈派の中の徹翁の法系に限定されることになったのであり、徹翁派に限り大徳寺住持資格を有することになる。住持に相応しい人材、資質、職務などは、大徳寺と徳禅寺ともに同じ内容で規定される。従って徳禅寺住持者は、大徳寺住持の人材として適合し、大徳寺住持は前住徳禅の経歴を有することが必定となって、徳禅寺住持が大徳寺住持になる登竜門となり、それが公認される。
二の「大徳寺法度」と「徳禅寺法度」は応安元(1368)年に成るが、大徳寺と徳禅寺の両寺の関係に視点をおいて見ると、「徳禅寺住持、両寺会合の時、位次のこと、本寺東堂西堂の次ぎ宜しく定席とすべきなり。行道の時、両班の次ぎに宜しく行道すべきなり」と、徳禅寺住持が大徳寺に会合したときの座席位置は、大徳寺の東堂・西堂に次ぐ下の席であり、堂内をめぐる行道のときは大徳寺の東班・西班の後に列することと規定する。この座位規定は、大徳寺と徳禅寺の本末転倒を回避し、徳禅寺は大徳寺を超える地位になることはないが、大徳寺下の筆頭とする位置付けが確定されたことを意味する。
「徳禅寺法度」には住持以下諸役職の人材や選任手続き、役職者の俸給などについても詳細に規定し、徹翁が理想とする禅寺運営を図っていることが分かるが、実にそれは大燈国師の大徳寺運営の基本精神に通ずるものであって、それを徳禅寺に具現したものと考えられる。室町幕府の禅宗統括政策下で、大徳寺の管理運営体制に変更を余儀なくされる事態が起こっても、別刹の徳禅寺には及ばないのであり、開山在世期の大徳寺の法灯が徳禅寺に保持される。燈徹体制を徳禅寺に大徳寺絡みで確立しておくことの意義はそこにあった。
さらに徹翁は「徳禅寺法度」に、「当寺毎年所出の土貢に随い、五分一を分かちて大徳寺仏殿修造料足としてこれを寄付するなり。若し仏殿修補に余れば、法堂、僧堂、庫裏以下破損の堂舎修補」と、徳禅寺の寺領から入る土貢の二割を大徳寺の仏殿修造費として納金し、剰余金が出たときは法堂など破損した堂舎の修造費用に充てることとした。
ここに徳禅寺は、大徳寺維持費拠出の任を担っている事が分かり、大徳寺の退転という危機的状況をも考慮していた徹翁を見出す。事実、大徳寺領からの土貢収入は漸減し、また新たな獲得による財源拡大などは容易なことではない状況にあった。その大徳寺の堂宇整備と寺観保持の経済的支援体制の構築を新たに創建した徳禅寺に実現したのである。「大徳寺法度」に「当寺者始無檀那、開山自以一力興行了也」と、大徳寺の創建は檀越外護者に依ることなく、大燈国師の一力で成ったことを昂揚して、大燈国師に尊崇の意を表し、護寺を誓う徹翁であった。その具体策は、大燈禅嗣法者の育成と財的支援を担う徳禅寺の創建に見られ、大燈国師の「法」と「寺」を守る拠点を築いたのである。ここに時代の転換期の渦中にある大徳寺の行く末を案ずる徹翁が意図した一寺開創の真意を知る。
かかる徹翁であったが、大徳寺に一住三十年、但州の安養寺など地方に寺を開創し、言外宗忠などの法嗣を出して大燈禅を後世につなぎ、応安2年5月15日、世年七十五、法臘五十六をもって遷化した。爾来、650年、嘗て一休や沢庵が大燈国師とともに徹翁を崇敬し、高くかかげた歴史がある。それを踏まえた上で、これからの禅宗のありようを考えるとき、示唆的ではあるが激動の転換期に生きた禅僧徹翁に得るものがあるように感じる。この機会に徹翁を顕彰し、今日的視点での注目もあればと思う。