激動期の禅僧 徹翁義亨(1/2ページ)
花園大名誉教授 竹貫元勝氏
大徳寺開山宗峰妙超(大燈国師)は、建武4(1337)年12月22日の示寂を前に大徳寺の後任住持を定めた。宗峰妙超(1282~1337)に随従した期間が長いこと、大燈禅悟徹の人であること、大衆に周知された禅者であること、衆に慈悲の心で接し、学徒の育成にあたれる人であることなどの視点で人選された。
大燈国師の席下には、京都東山で聖胎長養している最中から師事し、「牛窓櫺を過る話」の公案を透過し、さらに紫野徙居にも随従して、大燈禅を修めた徹翁義亨(天応大現国師)がいた。大燈国師はその徹翁義亨(1295~1369)を「当山第一世の住持」に指命し、常用の「法衣を付」した。暦応元(1338)年3月26日、勅を奉じて大徳寺に入寺開堂した徹翁は、これより大燈禅をかかげ、護寺発展に尽力する。
ところで、大徳寺は花園天皇・後醍醐天皇に依って両朝の祈願寺となり、住持制は大燈国師の一流相承であった。ことに後醍醐天皇は五山の其の一、南禅寺と並ぶ上刹の寺格とするなど大徳寺に関心を高くし、寺領を寄進して寺勢の興隆を図り、元弘3(1333)年頃には「七千六百石」もの土貢が入る寺領を有した。しかし、大燈国師晩年の建武期になると、花園天皇は妙心寺を開創して大徳寺を離れ、後醍醐天皇の建武政権は倒れて室町幕府の成立がなり、政権が替わった。
室町幕府は、暦応4(1341)年に五山位次の評定を行い、翌暦応5年4月23日に沙汰し、大徳寺を五山から外した。後に十刹に列せられるが、五山保護政策を進める室町政権下での大徳寺は、展開に暗雲迫る転換期を迎え、山隣派への道を歩むことになる。
この期の大徳寺住持となった徹翁について、『天応大現国師行状』は「寺前の地に相して別に山を開く、山名は霊山、寺号は徳禅、池を鑿ち石を畳む、宛塵外に有り」と、徳禅寺の開創を記す。この禅寺は大徳寺の隣接地に創建され、山号の霊山は、禅宗のはじまりの話にある「霊山会上」に因っているのであろう。境内には正伝庵が建てられ、竹影閣が設けられており、庭園が築かれて処々に石が立置かれ、それを諸尊像であると言明する。大徳寺文化(紫野文化)形成の萌芽を知る禅刹の創建ともいえる。正伝庵には諷経の経典とその回数などに関して詳細に規定し、仏舎利感得の因縁などを記した「正伝庵法度」が「徳禅寺法度」とは別に制された。しかし、徳禅寺は応仁の乱で焼失し、一休禅師が再興した。今日、大徳寺に所在する徳禅寺がその寺史を刻む名刹なのである。
徹翁に帰依する人物には、室町幕府第2代将軍足利義詮(1330~67)、正伝庵に播磨平井庄・寺田村などを寄進した尊胤法親王(梶井宮尊胤法親王・梶井二品親王)、若狭の名田庄を寄進した花山院中納言兼信(法名、覚円)、若狭国名田庄井上村の寄進者藤原行清、さらに日野中納言、摂州国造住吉神主国夏、赤松則祐など多くを数える。徹翁をとりまくそれらの人を徳禅寺の外護者とし、その寺領を財源に展開が図られた。しかし、それは大燈禅の法灯堅持と大燈国師の開創寺大徳寺の護寺を第一義とするものであった。そのことを看過してはならないのである。
貞治6(1367)年9月13日、足利義詮が「大徳寺并徳禅寺住持職、同法度」について御判御教書で認め、同年10月7日に後光厳天皇から「大徳寺・徳禅寺住持職并法度事、武家証状備叡覧候了」と、その御教書を認める綸旨の下賜があった。これに依って、一に両寺の住持は徹翁の「器用の門徒」による「門弟相承」とすること、二に徹翁による「大徳寺法度」と「徳禅寺法度」の制定を承認することの2点が公認された。