曹洞宗禅画の祖 風外慧薫生誕450年(2/2ページ)
曹洞宗禅文化の会事務局長 鈴木潔州氏
風外慧薫の画才は天から与えられたものであるとし、人からその画を求められると5升の米と替えていたとする。米が尽きるとまた、画を1枚書いていたという。そのために風外慧薫の居を訪れる者が多く、応接の暇もなかったという。乱れて騒がしいこの状況を嫌い南に去り真鶴山にいたる。斑石が林立するこの景色を風外慧薫はよろこび止居。曽我、田島、真鶴と風外は穴居したのである。
このころ、風外慧薫がお城に招かれるということが起きた。慶安4年、小田原城主稲葉氏は風外慧薫の名を聞き、使いを遣わしめ、城に招いた。時に城主は他用があり、家臣とともに宴を張り、日がくれて晩になってしまったという。風外慧薫は筆を執り五言絶句を記し立ち去った。風外慧薫の穴居とならび、よく知られているエピソードである。
小田原城主稲葉正則の招きを受けながらも会うことなく城を辞してしまった風外慧薫は、真鶴に戻ることなく伊豆山中に隠れ住む。当地の人たちは、竹渓院を再興して迎えたという。今までのしがらみを捨てて伊豆山中に隠れた風外ではあるが、慕う人たちがまた多く集まるようになったという。伊豆山中北条におよそ3年いるも、そこを逃れ遠江と西へ西へと流浪の旅にでた。自らの終焉の処をもとめての旅であったろう。行き交う人には風外慧薫を知る人もいない。
浜名湖の北、金指郷石岡の里に至り単丁庵に住む。死期を悟った風外慧薫は、1日人を雇い青銅300文を与えて穴を掘らせ、その穴に入り植木の様に立ったまま亡くなったという。承応3(1654)年、87歳であったと推定されている。
安中市の風外研究家、岩井正文氏は「風外慧薫は、修行時代を経て群馬を離れたあと戻ることはなかったのではないかと思う。現在、県内に風外慧薫の墨蹟が所蔵されているが、そのいずれも昭和になりその墨蹟が広く知られるようになってからのものであり、風外慧薫が故郷で書いたと思われるものはない」と語る。諸方を歴参、故郷に帰ることもなく一所不住の行履であった。
穴居時代から筆を執りはじめた禅画には抜きんでたものがあり、多くの人がその画を求めたという。風外慧薫が、どこで画を学び自らのものとしたかなど全く不明である。求められるままに描いた墨蹟は、透明さ・飄逸さにおいて人知の及ばないものがあり、今に伝わる墨蹟からは中世の香りが感じられる。無駄をはぶいた筆は鋭く、その内面を抉り出すような画には、後の白隠・仙厓などにつながるものが感じられる。
近世禅林美術史上において高い評価を受けているが、これからもその輝きは増していくことと思う。3カ所での風外慧薫展覧会は来年まで続くが、ぜひ皆さんに足を運んでいただき、風外慧薫の墨蹟、生きざまに触れていただきたいと念願している。なお、曹洞宗禅文化の会では今後、東京を会場に「大風外慧薫展」を行いたいと考えている。