高野山の近代化―女人禁制解除と外国人登山の視点から(1/2ページ)
高野山大総合学術機構課長 木下浩良氏
真言宗の宗祖弘法大師空海が開創された高野山は、かつて女人禁制の御山であった。このことは高野山に限らず、日本全国の霊山は、同様に女人禁制であった。
高野山の七つの登山口には女人堂が設けられていて、女人の高野山入山を閉ざしていた。
女人禁制が解かれるには、1872(明治5)年3月27日、明治政府による「神社仏閣之地ニテ女人結界之場所有之候所、自今被廃止候条、登山、参詣、可為勝手事」との太政官布告98号の発布を待たねばならなかった。何故、明治政府は女人結界を解くように指令したのであろうか。それは、明治5年3月から5月、京都で開催された第1回京都博覧会で多数の外国人の来訪が見込まれたからであった。それら外国人は、近隣の比叡山への登山を望むものと予測され、その時に女人禁制だからと女性の登山を禁止したならば、文明開化を唱えていた政府にとって悪影響との判断が起因であった。
ところが、高野山においては明治5年3月27日を以て、一瞬にして女人禁制を解いた訳ではなかった。紆余曲折しながらも、徐々に女人禁制を解いていった。女人禁制解除は国策としてなされたものであり、これに対する高野山の抵抗と、まさに近代化という時流との攻防があった。そのことは、高野山が近代化する時代の変革には時間の経過を必要としたのであって、同時にこの頃の高野山における外国人登山は近代化の象徴であった。
明治5年3月の太政官布告の直後、高野山における指導的立場にいた、釈良基・高岡増隆・獅岳快猛・釈雲照等の各師は一山の大衆を糾合して「女人再禁の血盟書」を作成して太政官へ建白した。さらに中堅クラスの僧侶等は御社前で水盃を酌み交わして政府に強訴しようとした。この動きには政府も黙止されず、高野山のみは女人結界勝手たるべし、との朝廷の内意を伝えて安穏におさまった。
太政官布告から1年後の73(同6)年春、高野山ではようやく女人の高野山登山が見られるようになる。その頃、高野山内の町家の木炭店で、最初の山内結婚が行われた。ただ、山内は女人禁制解禁の反対運動の最中であり、大問題となり投石事件や、木炭の不売買同盟まで結成されるという大騒ぎとなった。さらに、79(同12)年8月には味噌屋を営む夫のあとを慕って高野山に永住した、初めての女性が現れた。
かくして、女人解禁の闘争は80(同13)年まで続くことになる。同年5月、高野山各院は女人止宿禁止とし、女人は山内寺院において白昼だけの休息を認めた。女人の宿泊は、江戸時代の女人禁制当時に復して、旧女人堂を修理し仮の女人参籠所とし、いずれは正式の女人参籠所を寺院外地へ建設することになる。女人の参詣は許すが、止宿は隔離した。
問題は、女人参籠所を何処へ建設するのかであった。高野山内であっても僧坊に隣接していなければ認めることになり、山内の数カ所に同参籠所を設ける案が出る。ただ、場所が多ければ取り締まり上不都合があるという理由で、82(同15)年3月に現在の高野山大の敷地の上段に設けることになった。この時、既に高野山大は高野山大学林として開校していたが、その敷地は現在の金剛峯寺奥殿付近の旧興山寺の跡地であった。
ちなみに、高野山大が現在地に移転するのは、旧制大学昇格後の1929(昭和4)年である。それまでの上段は、寺院もあったが町家が建てられていた。その後、上段は飲食店や商店が立ち並ぶ歓楽街へと発展する。金剛峯寺当局は高野山大が移転するまでに、鶯谷へ町ごとを移転させたのであった。
この上段における女人参籠所については詳細にできない。1884(明治17)年に行われる高祖一千五十年御遠忌を前にして、83(同16)年9月に「女人止宿制規ノ義ハ、漸次実践ノ良法ヲ立ツヘキ事」と女人止宿改正条々がなり、翌17年4月には1泊を限り女人の止宿が認められ、2泊以上の場合は教義所(現在の宗務所)へ届け出ることになった。