高野山の近代化―女人禁制解除と外国人登山の視点から(2/2ページ)
高野山大総合学術機構課長 木下浩良氏
85(同18)年、女人解放の動きは一歩進んだ。それは尼僧に対する待遇で、同年の尼僧の一人が正式に高野山住山の僧侶の仲間入りをする「結縁交衆」をした。さらに、86(同19)年開校の古義大学林(高野山大学林が改称)に、尼僧入学が認められた。尼僧は堂々と高野山内を闊歩していた様がうかがえる。高野山の女人の住山は尼僧を先頭に築かれた。
その一方で、93(同26)年7月、金剛峯寺は請願巡査(地方自治体・企業・個人の請願により配置された巡査)の特派を出願して許可を受け、99(同32)年まで山内警備の駐在が続いた。請願巡査は金剛峯寺お抱えの山内風紀の取り締まりで、特に婦女子の取り締まりに当たった。
1901(同34)年5月、小松宮彰仁親王の高野山登山の時、特に女人留山について令旨を下されて、高野山の僧侶たちは得心したとされている。04(同37)年、日露戦争が突発すると、山内町家の店舗は出征軍人を多く出して、軒並みに閉店をせざるを得なくなった。山内寺院においてもそのことは同様で、男手が不足していった。そのため、06(同39)年、弘法大師開宗一千百年記念法要が修された日の同日、金剛峯寺座主密門宥範大僧正は、従来の規則を全廃して女人居住の許す山令を下した。女人禁制の治外法権が完全に消滅した瞬間であった。明治5年の太政官布告以来、実に35年にして高野山の女人禁制が解かれた。
一方、外国人の高野山登山について、まず挙げられるのがフェノロサで、1884(同17)年12月のことであった。この年、フェノロサは岡倉天心らを同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行っているので、高野山へもその目的のために登山したものと考える。女性外国人の高野山登山の初見は、86(同19)年7月であった。これは、政府による高野山宝物内覧の時で、文部省視学官・大蔵省主計官他3名に、イギリス人女性が同行した。以下、順に高野山登山をなした外国人を挙げる。
1901(同34)年11月20日、ドイツ人のフランツ・バッエル氏。06(同39)年9月14日、神戸フランス領事ハンリー・エーメー・マルタン氏。同年10月27日、ルーブル博物館館長ミジョン氏。07(同40)年5月14日、ドイツのライブルヒ大ドクトル・エルニスト・グローゼ氏、ベルリン帝室博物館オット・キンメル氏、アメリカ人のウーソン氏。同月18日、チャールス・ジュー・モールス氏。
そして、『ナショナルジオグラフィック』07年10月号に、高野山の記事と高野山の僧侶の写真を紹介したのが、ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事で、アメリカの著作家・写真家・地理学者のエルザ・ル・シドモアであった。全世界に高野山が発信された。
高野山の近代化に伴い、外国人が堂々と高野山へ登山して宿坊に宿泊するのは、女人禁制が完全に解かれた、明治39年・40年を待たねばならなかったのである。しかしながら、この年は高野山が世界に紹介される記念すべき年であったことを特筆したい。
山内住職の藤本真光師が公然と結婚式を大師教会本部であげたのは、26(大正15)年であった。式の最初に御法楽として般若心経をお称えしたところ、お手伝いの若い女性が思わず噴き出したというエピソードが残っている。笑い話とも受け取れるが、筆者はいまだ女人禁制の禁忌が残っていたことを今に伝えているものと考える。明治40年からさらに、20年後の出来事であった。