晩年の清沢満之と真宗大谷派宗門(1/2ページ)
真宗大谷派教学研究所研究員 藤原智氏
明治時代の仏教界・思想界に大きな影響を与えた真宗大谷派の清沢満之(1863~1903)。清沢の生涯をたどれば、様々な側面――東京大学で哲学を専攻した哲学者としての側面、同志とともに白川党の教団革新運動を牽引した運動家としての側面、そしてその後、弟子たちと「精神主義」を鼓吹し、また真宗大学(現大谷大)を東京に移転・開校させた宗教者・教育者としての側面など――を見ることができる。
しかしこれら清沢の多様な側面が、全く別個のように捉えられる向きがある。例えば、白川党の革新運動を終結させた後、河野法雲に語った言葉、「これからは、一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力しやうと思ふ」(『精神界』第9巻第6号、21頁)から、晩年の清沢は信念の確立一辺倒となり、宗門や社会への関心を放棄したのだと。
けれども同時代の清沢に対する人物評は必ずしもそうではない。没する前年、真宗大学学監の地位にあった清沢について、『中外日報』1902年9月4日付は大谷派の近状を報じるなかで、次のように記している。
清沢は亦た精神一片の人とは云ふこと能はず、唯だ軽々しく動かざるだけで随分策もあり略もある人たるは旧白川党の諸氏自ら公言する処を以ても知られる
ここで清沢は、軽挙しないだけで、宗門政治に対し随分と策略を抱いているのだと評されている。このような最晩年の清沢の大谷派における立ち位置は、これまで十分には確かめられていない。
1895~97年にかけての白川党の教団革新運動により、大谷派宗政はそれまでの渥美契縁から石川舜台の手に移った。この石川が様々な事業を展開していくのだが、その一環として清沢の登用がある。
具体的には99年7月初頭、石川は清沢とその同志である月見覚了・関根仁応に京都の真宗大学の運営を依頼する。清沢たちは同志と相談の上、大学の東京移転、経費の保証、教育方針の一任の3条件でこれを引き受けた。そして1901年10月13日、清沢を学監、関根を主幹として、真宗大学は東京・巣鴨に移転・開校するのである。
ところでこの間、同年6月には大谷派に耆宿局という制度ができている。耆宿局は、宗門の重大案件について法主の諮問に応える機関である。そして渥美契縁や南条文雄などとともに、清沢もその一員となった。これ以降、清沢は宗門の耆宿として、さらには大学の学監として、大きな影響力をもつこととなるのである。
しかしこの時、大谷派には大きな問題が浮上していた。それは石川による事業展開の結果として抱えた多大な負債である。真宗大学開校の3日前には、法主・新法主の名で財政整理の御親示が発表された。宗門内では、各学校の閉鎖の声も上げられていた。真宗大学の出発は実に前途暗澹たる状況であったのである。
やがて02年4月12日、有力門徒で構成される加談会から石川内局へ不信任が突きつけられた。そして同22日、石川政権は総辞職となる。その後、渥美契縁が顧問に任命され、宗政は再び渥美の手に戻ることとなった。
この政変の最中、『読売新聞』4月24日付は、新内局案として寺務総長に南条文雄、教学部長に清沢満之とする説を報じている。実現はしなかったが、この時の大谷派は南条・清沢内局となる可能性が十分にあった。それだけ宗門内の信望と勢力を清沢は有しているというのが、一般の評価なのであった。
さて、渥美体制となって初めに行ったことは財務調査である。そこで有力門徒が会計評議員となり、5月末に調査報告がなされた。そこで報告された大谷派の負債総額は約248万円、年度予算のおよそ10倍であった。