発掘調査成果から探る山科本願寺の実像(2/2ページ)
京都市埋蔵文化財研究所調査課担当係長 柏田有香氏
「御本寺」の中心部では10回の発掘調査が行われている。2005年に行われた調査では、泉を配する庭園や小規模な建物跡が見つかった。建物周辺からは千点を超える輸入陶磁器片や堆黒・金蒔絵など高級漆芸品の破片が多数出土した。山科本願寺には「御亭」と呼ばれる施設が存在したことが分かっている。「御亭」とは客人のもてなしや、宗主一族や重臣の遊興に用いられる建物で、現在の西本願寺飛雲閣に繋がる本願寺にとっては欠かすことのできない重要な施設であったとされる。発掘調査で見つかった建物は、庭が付属することや棚飾りとなる漆芸品や日常雑器ではない高級輸入陶磁器が多量に出土するという点からみて、この「御亭」の一部であった可能性が高いと考えている。
13年度に行われた調査では、石風呂遺構を中心とした重要な発見が相次いだ。敷地北側では、円形の石組井戸が見つかった。井戸の周囲には柱穴や礎石が散見され、建物が存在した痕跡も確認した。この建物の性格については、井戸の存在と、周囲から炭化米が出土したことなどから炊事に関わる施設と推測される。また、井戸からは厚い壁土や炭化米の塊が多量に出土しており、米を貯蔵した土蔵の存在も想定できる。これらの遺構の南側で、掘立柱建物・石風呂・竈・土間・井戸で構成される風呂関連遺構群が見つかった。石風呂とは、粘土と土で固めたドーム状の室の中で生木を燃やした後、燃えかすを掻き出し、そこに筵を敷いて水をかけ、蒸気を発生させて熱気浴を行うサウナのようなものである。全国的にみても、これまで発掘調査での検出例はなく、貴重な発見として現地公開時には400名以上の見学者が参加した。さらにこの石風呂は、出土位置から見て『実如上人闍維中陰録』や『本願寺作法之次第』に記される「野村殿(山科本願寺のこと)の風呂」であることはほぼ間違いない。『本願寺作法之次第』には利用者や入浴方法が具体的に記されており、「御住持(宗主)」のほか、「五山の長老」「御内衆(家臣)」「一家衆(宗主の一族)」なども利用したことが分かる極めて重要な遺構であり現地保存されている。
前記の石風呂の南側では、11年度調査で建物と建物を結ぶ廊下状の遺構、12年度調査で石組溝を配した坪庭が見つかっていた。05年度調査の「御亭」と推測される建物を含め、約200メートル四方の範囲にこれらの遺構が集中している。風呂の南に「御亭」の庭や建物があり、それら建物から廊下を通り、坪庭を眺めながら石風呂へと到る経路が想定でき、その北側には炊事施設や蔵がある。これらの施設は、一般門徒には開放されない本願寺の私的空間であると推測される。そうした空間とは、本願寺の寺域の中のどこに位置するのか、いまだ発見されていない阿弥陀堂、御影堂との位置関係が問題となる。現在の東西の本願寺や安永9(1780)年に製作された『都名所図会』に描かれた西本願寺を見ると、南北に並ぶ阿弥陀堂、御影堂の裏手(西側)に居住施設や実務施設が集中している。現代の本願寺の堂舎配置が山科本願寺の系譜を引くとされることや、私的空間遺構群の西側には土塁が迫ることから、山科本願寺でもこの私的空間の東側に阿弥陀堂と御影堂が位置したことはほぼ間違いない。今後、山科本願寺の調査史上の最重要課題である両堂の発見が期待される。さらには、造営開始から焼亡までの整備や改修過程を遺構の変遷を基にしてより詳細に復元すること、調査数が少なく実態が不明な「内寺内」「外寺内」についても今後調査を進め、寺内町の人々の暮らしぶりを明らかにしていくことも我々発掘担当者に課された課題である。