核兵器廃絶 宗教の抑止力に期待 ― 生命への畏敬から考える(2/2ページ)
天理大教授 金子昭氏
しかし、この恐怖を強化していくことが抑止効果になるとは限らない。政情不安定な国が核開発に成功して、これを兵器として図らずも使用してしまう恐れがある。地域限定核戦争や核テロリズムの可能性も想定される。また当初から指摘されているように、何らかの要因で誤作動が起きて偶発核戦争が起きる危険性もある。だが、核兵器さえ廃止してしまえば、そうした恐るべき事態はそもそも起きないのだ。
恐怖による抑止力は相互懲罰的な強制力であるが、この発想に問題はないのだろうか。抑止力を言うのであれば、もっと内発的で倫理的な抑止力の思想があっても良いのではないか。我々のいのちが脅かされるという恐怖は、我々が生身の人間存在であるからだ。この脅威を拒絶するのは自己保存という本能からして当然であろう。それは、いのちが人間にとって絶対的な価値であり、人間の尊厳の基盤だからである。
いのちを前にして我々が感じる畏れと敬い、それが生命への畏敬である。いのちの破壊に対する恐怖は、生命の畏敬という形で深められ、受け取り直さなければならない。核実験や核戦争に対するシュヴァイツァーの反対声明は、冷戦時代における時局対応的な性格を有していた。しかし、彼の生命への畏敬の倫理は新たな時代状況の中で再評価されるべきである。この倫理は、抑止力に関する議論を核武装ではなく、核廃絶に向かう方向に向ける思想的立脚点を有するからである。
シュヴァイツァーはノーベル平和賞受賞講演の中で原子爆弾にも言及し、そのすさまじい破壊力に直面して、人類は自らの存在を脅かす恐怖の全貌を眼前に見たと述べた。しかし、この時我々が自覚すべきは、そのような恐るべき破壊力を所有するに至った人間が“超人”になり、そのために“非人間”となってしまったことだと言う。人間性はどこまでも生身の人間存在に焦点が合っていなければならず、これを超えてしまえば“非人間”たらざるを得ない。彼は、生命への畏敬こそが人間性の根底にあると述べている。生命への畏敬を自覚することで、人間性の志向も完全なものになるのである。
ボタン操作だけで一都市を破壊できるのが今日の戦争の恐ろしさである。しかし、ボタンを押す人間は、たとえ敵であろうと目の前の人を刃物で殺すとなれば、耐えがたい抵抗を心に覚えるはずだ。それは、互いに生身の人間同士として向かい合うことで、内なる人間性が呼び覚まされるからである。この感覚は生身の身体を持たないAIには存在しない。
我々は、核兵器廃絶に向けて、諸国間の交渉、国際組織の整備に努めなければならない。その一方で大切なのは、これらを後押しする国内外の声が高まることである。シュヴァイツァーは人々が生命への畏敬に目覚め、これが有する人間尊重の思想(ヒューマニズム)を通じて個々人や諸国民が倫理的に陶冶されていくことを求めた。そして彼は、唯一の被爆国である日本の世論が国際世論を喚起することができると信じていた。
核兵器廃絶をめぐっては、さまざまな思想や時代状況が絡んでいる。冷戦時代、ソ連の核兵器をめぐって日本の核廃絶運動が分裂したため、国民全体の運動に水を差してしまった苦い経験がある。また近年では、チェルノブイリや福島での原発事故により、放射能そのものの危険性が注視されるようになった。そんな中、戦争利用だけでなく平和利用においても“核廃絶”を拡大すべきだという世論も高まっている。
このような状況下では、国際政治や科学技術の専門家だけに平和と安全のための戦略を任せるのではなく、倫理学、心理学、宗教学などの人文学(ヒューマニティズ)による人文知が結集されなければならない。この根底に流れるものは人間尊重の思想(ヒューマニズム)に他ならないからである。
シュヴァイツァーと同時代の人々は、彼がアフリカの原生林の中で日夜、黒人への医療奉仕に努めていることを良く知っていた。それゆえ、その平和声明の内にこれを訴える彼の人格を強く感じると共に、彼の唱える生命への畏敬の思想をも十分汲み取ることができたのだった。日本の宗教者は、広島や長崎の被爆者から証言を受け継ぎ、またいのちの尊厳を教えと実践によって説いてきた。宗教者が主唱するいのちの尊厳は、だれもが共通して立つことができるヒューマニズムの土台となりうるものだ。その意味で、今後いっそう核廃絶に向けて宗教者からの発信を期待したい。