神道の社会的側面と他界的側面(2/2ページ)
筑波大名誉教授 津城匡徹(寛文)氏
リンカーンの第2次就任演説に、つぎのような考え抜かれた一節がある。ここには、戦争は幼稚な人間によって積みあげられた罪が招く必然であり、罪は同じ重さで贖わなければならず、人間はそこから教訓を学ばねばならないという、成熟した知恵が響いている。
「もしアメリカの奴隷制を神の配慮の中で生ぜざるをえなかった罪の一つ、しかし、彼の定めた間は継続して、今では彼が除去しようとしているものと考えるならば、また彼がこの罪によって来った人々にたいする苦しみとして、北と南の双方にこの恐るべき戦争を与えていると考えるならば、そこにわれわれは、生ける神を信じるものが常に彼のものとしていた神的な性質に反するものを見るであろうか。この戦争という大きな天罰が速やかに去ることを、われわれは心から願い、熱烈に祈る。しかし、もし神が同胞の250年にわたる休みなき労苦によって蓄えられたすべての富が尽き、鞭で流された血の一滴一滴が剣で流された血で償われるまでそれが続くことを欲するならば、それでも3千年前にいわれたとの同様、主の判断はすべて真実にして正しいといわねばならない。」
リンカーンの思想と対照して、知名度は比べものにならないが、大正期から昭和前期に活躍した神道家、友清歓真の、戦前・戦後の論説を見てみると、戦前の思想は、指導的戦略家の一人であった石原莞爾らと同じく、西洋の侵略から東洋を解放する、ということであった。石原の「最終戦争」論の影響か、友清にも「人類の最終戦」という一節があり、大戦を「魔性勢力」が英米の指導者を操って起こしている「神々の闘争」と捉えている。つづけて、この事業は「多数の死者を出す」が、「ふるひにかけてよをきよめる」という天啓通り「やむを得ない」と述べて、天意と人情が異なることを強調している。軍人ではない友清の活動は、「古神道の立場」からの「思想戦」と「霊的国防」神事にあった。
このような人命を犠牲にする思想は、戦後になると、「身に寸鉄を帯びず」という、戦後の石原莞爾と同じ非暴力思想に傾いていくが、しかし無抵抗主義の極論にはならない。「理想として吾々は身に寸鉄を帯びずに堂々と天津日の下に立たんことを欲する」が、「現実はそれをゆるすであらうか」、いずれにしても、「此の天体運動の大きなカーヴを乗り切るためには人間の力だけでは駄目である」として、無防備で世界に向き合う思想と、社会的責任を考えるリアル・ポリティックスの思想を並べたうえで、人間を超えた他界的力の介入に望みをかけている。
『昭和天皇独白録』に注記された側近の日誌に、伊勢神宮は「軍の神」ではなく「平和の神」であるのに、戦勝祈願などをしたので「御怒りになったのではないか」という、神意を忖度する一節がある。社会的には意味のなさそうなこの記録は、他界的神道を考慮する立場からは重要である。神道の最重要な部分である天皇の信仰は、皇祖神にして「平和の神」に核心がある。立憲君主の理念に立つとはいえ、天皇は神道の最高祭司として神に祈る立場にあり、実際に祈り、神意は天皇をとおして臨在しているというのが、他界的神道の一つの極限である。
『独白録』にも記録されているように、また戦後のマッカーサーとの会談でも示されたとされるように、高邁な指導者・責任者に共通するのは、非常事に際して、自らの命を代表として差し出す反射的な決断である。低劣な指導者は責任能力に欠け、自らの卑小な命を惜しんで一般人の命を犠牲にする。さらに、優秀な指導者がいても、犠牲を最小化できないのは、愚劣な者が混ざっているからというだけでなく、指導者集団が他界的知恵に欠けているからであり、さらには、「宿罪の決算期」「天体運動」と言われるような法則によって、天災・人災を避けられないからでもある。
他界的神道の極限が「平和」の神意にあるとすれば、その精錬は、平和の神に平和を祈る祭司―王としての天皇を支えて、神道者たちが平和を祈ることである。この他界的な実践はまだ行われやすいのに比べ、それを政治社会に実現する社会的神道の精練は、他界的信仰に加えて社会的工夫という、二重の知恵が求められる。高名な知識人から、「ある種とてつもない深さと広がりを持った存在が登場してくれなければ、人類は救いようがない……そういうときが近づいているのではないか」という他界的待望論が出てくるほど、これは人間業を超えた至難の課題のようである。