宗教法人法をどう理解するか(2/2ページ)
近畿大法学部教授 田近肇氏
例えば営利法人について、会社法は、宗教法人法の解散命令と類似した解散命令の制度を定めている。しかし、実際には、会社の違法行為に対しては事業の停止や免許の取消などの手段で是正が図られるため、解散命令制度はほとんど利用されてこなかったといわれる。また、学校法人についても、私立学校法は所轄庁による解散命令の制度を定めているが、この解散命令は「他の方法により監督の目的を達することができない場合に限り」行いうるものとされている。
それに対し、宗教法人の場合、宗教という「事業」それ自体を規制する法律の規定が存在しないため、宗教法人が違法な行為をしていたとしても、段階を踏んでその是正を求めるということができない。その結果、宗教法人の違法な行為が発覚しても、所轄庁は、当面の間はなんらの措置もとることができないにもかかわらず(もちろん、その間に、個々の役員や信者の行為について刑事罰が科されたり、民事責任が問われたりすることはありうるが)、ある時点でいきなり解散命令請求という最終的な手段に訴えるという格好にならざるをえないのである。
このように宗教法人に関する法的規律は、他の法人の場合とは大きく異なっている。宗教法人に関する法的規律が上記のような特殊な構造になるのは、宗教法人法が純然たる法人格付与法として、法人制度に伴う最小限の規律しか定めていないからである。
では、宗教法人についても、宗教という「事業」そのものに関して改善勧告や措置命令を行う権限を所轄庁に認めるべきだろうか。現に、一部ではそうした主張もなされており、日本維新の会が提出していた宗教法人法の改正案は、宗教法人が法令等に違反しまたは業務・事業の管理運営が著しく適正を欠くときには、所轄庁は、当該宗教法人に対し必要な措置をとるよう勧告することができ、当該宗教法人がこの勧告に従わないときには公表・措置命令を行いうるものとしていた。しかしながら、このような所轄庁の権限を認めることは、かつての宗教団体法と何が違うのだろうかという疑問をもたざるをえない。
宗教は国家の関心事ではない――為政者の権限は魂の救済には及ばない――というのが、近代国家の大前提である。もちろん、宗教の名の下で行われる個々の行為に対して国家による規制が及ぶことはありうるが、それは、国民の生命や健康、財産などの保護が国家の正当な関心事だからなのであって宗教自体が国家の関心事だということを意味するわけではない。
とくに、信教の自由だけではなく、政教分離原則を定めた日本国憲法の下では、宗教が国家の関心事であるということを前提にして国家が宗教という「事業」に関して一般的・包括的に監督権を有すると考えることはできない。それゆえ、宗教法人法をもって、純然たる法人格付与法を越えて、国家が宗教を一般的に監督するための法律であると考えることはできないはずである。
宗教法人法は純然たる法人格付与法であって、国家が宗教活動を監督するための法律ではないという筆者の立場は、宗教法人性善説に立つものではない。宗教法人には非違行為はないからそもそも規制の必要がないというのではなく、仮に宗教法人が非違行為をすることがあるとしても、信教の自由と政教分離原則ゆえに、国家の権力は抑制されるべきなのである。
他方で、筆者は、宗教法人による違法な行為に対して国家は無為無策であるべきだと言っているのでもない。国家が宗教法人の活動を包括的に規制・監督することが否定されるからと言って、宗教法人の違法な活動を問題ごとに個別的に規制することまで否定されるわけではなく、霊感商法のような違法行為が規制されるのは当然であろう。
それに加えて、違法な活動をしている宗教法人に関する情報提供のような非権力的な対策も重要である。いわゆるカルト宗教への対策を求める近時の議論では、ともすると、行政処分や刑罰の賦課など、国家の権力を用いた対策のみが考えられがちであるが、宗教法人に対する権力の行使は抑制されるべきだとすれば、こうした非権力的な対策にこそ、もっと目を向けるべきであるように思われる。