IPCR国際セミナー2023報告(2/2ページ)
ジャーナリスト 北村敏泰氏
各地で400回以上続ける中で、「どうして自分だけ生き残ったのか」「誰が生と死を決めているのか」という答えのない悲痛な問いを受け、それまでのあらゆる宗教的言辞が通じない、苦しむ相手と自己の境界が消えていき、逃げ出したくなるような状況に僧侶として苦悶したことを金田住職は告白する。
しかし、人々が悲嘆を語ることで人間が内に秘めるレジリエンス(再生能力)が発揮されるという気付きを得、ホッとする場を提供して傾聴する宗教者の役割は、教義教理に基づく安らぎに導くのではなく、相手の人生の物語が立ち上がるまで揺れ動く心情と同期しながら長い時間を共に歩む、「物語と対話に基づく宗教」であるとの理解に至ったことを披歴した。
これについての討論で中国イスラム協会のマ・ジェ文化研究部長は四川大地震での例から宗教者が救援活動をすることによって周囲に及ぼす「感化の役割」、さらには「教化、なだめる役割」の重要性を挙げ、韓国の研究者であるバン・ドンヨン・成均館対外協力室長は同国内でのフェリー沈没やデパート崩壊、梨泰院での雑踏死亡事故などについて、宗教者が被害者へのケアと同時に原因究明や責任追及の働きを続けている例を説明した。
いずれもスタンスの差異が際立ち、金田住職の講演とは必ずしもかみ合わない印象だったが、バン室長の「『公儀』を重視し、『衆生が病めば菩薩も病む』という原理を実践して市民に接する」という発想は深いところで共通の理解が得られたであろう。
宗教者の社会貢献を研究する稲場圭信・大阪大大学院教授は、東日本大震災などにおける宗教者らの動きを報告し、日本人は非宗教的層が多いとされながらも、災害時に支援活動の拠点となる各地の社会福祉協議会の多くが宗教者の支援を受け入れて高い評価をした点、また被災者支援では布教や宗教的なことが排除されると言われながら実際には傾聴でのグリーフケアで宗教的ニーズがかなりあったという点を挙げ、公共空間における宗教の在り方についてのさらなる論議の必要性を示唆した。
セミナー全体として、総合テーマに沿った「宗教・文化交流の積極的役割」セッションでは相互交流の意義が強調されつつ抽象的原則論が目立ったが、国家と政治との関係では突っ込んだやりとりもあった。
例えばセッション1で「各国政府の利害関係が一致しないので、国際政治だけでは東北アジアの平和生命共同体実現は困難であり、各国市民の超国家的連帯が必要。宗教の役割もここにあり、政治が壁になった時、宗教が門になれる」とのチョン教授発言に、金子教授が「宗教者もそれぞれ所属する国家の利害に無関係ではない。宗教の門は真空に浮かぶのではなく政治という現実の壁に取り付けられている」と指摘し、教授が「例えば気候変動などで国家レベルと市民たちの別々の動きをつなぐのが宗教」と応じるなど現実を踏まえた議論が深まった。
実際の行動という面でも、韓国の僧侶の「パンデミックでワクチンのようには効かない宗教は孤立者への“心のワクチン”となるしかないのか」との質問に、コロナ禍や災害で困っている人に接するボランティアを宗教者が支援した例が示された。
総じて、政治・社会状況が大きく異なる3国で、宗教の働きもその違いと無関係ではないが、他国での実際の取り組みから学び、刺激を受けるという成果が得られた。冒頭、被災地NGO恊働センターの村井雅清顧問による講演で、各地の災害時におけるボランティア活動の記録とともにそこでの宗教者の動きとそれへの期待が語られたことに、各国参加者が大きな刺激を受けた。そのように特に、コロナ禍や大規模災害・環境問題といった目の前の具体的な諸課題を巡って論議し、経験を共有しようとするところにこそ、地に足が付いた具体的連帯の可能性が見えてくることが示されたと言えよう。