《宮沢賢治没後90年㊦》音と声に導かれて(2/2ページ)
詩人 佐々木幹郎氏
冒頭の「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」という勇壮な音のリズムを持ったオノマトペ。実際の剣舞の踊りにこのような掛け声はないのだが、賢治自身がこの沸騰するような呪文の声を、剣舞から聴いたのだ。おそらくこのオノマトペの発見が「原体剣舞連」を、作者自身に「修飾された心象スケッチ」と言わしめた正体だろう。
しかもこのオノマトペは、他の詩行に対して3字下げで表記されており、すべての詩行の背後に鳴り響き続けている音であることを示している。
賢治はどこからこの表記法を学んだのだろう。チェロ演奏家としての賢治が、楽譜の表記法からアレンジしたものか。ともあれ、それまでの日本の近代詩でこのようなタイポグラフィ(文字の配列やレイアウト)を示した作品はないのだ。
さて、この音と声のリズムに導かれて、作品はいきなり踊り子たちの踊りそのもののドラマチックな描写に入っている。「げん月」というのは「半月」の文学的用語で、下弦の月や上限の月のこと。「アルペン農」は、アルプスの農夫のこと。
賢治の年譜によると、大正6(1917)年8月28日から9月8日にかけて、江刺地区への地質調査を行っている。このとき「五輪峠」を通った。同行していた友人の一人は、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾いながら、ホー、ホー! 二十万年もの間隔の目を見ずに居たので、みな驚いていると叫んでいた」と回想している。先に引用した詩句に「蛇紋山地」とあるが、これは「五輪峠」の岩脈のことなのだ。また、賢治はその岩を割りながら「ホー、ホー!」と叫んでいたようだが、「原体剣舞連」には、
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
というふうに、自らが現地で発した声も紛れ込ませている。「Ho! Ho! Ho!」は、彼が感動したときの声なのだ。
「准平原」とは、老年期の山地が浸食されて平原状になった地表面のことで、賢治においては、北上山地を指すか。北上山地は隆起型准平原である。
大正6年9月3日、賢治たちは江刺の人首町にある「菊慶旅館」に宿泊した。夕刻、この旅館からしばらく歩くと、遠くに原体村の神社が見えた。神社の境内から賑やかな音が聞こえるのを耳にした。その音に惹かれるまま、彼は神社の方向へ歩いて行った。ドラマはここから始まる。
神社は「大山祇神社」(奥州市江刺田原字虚空蔵74)と言い、祭神は「大山積神」と推定される。山の神であると同時に海の神でもある。ちなみに、原体村の「大山祇神社」境内のお堂には、虚空蔵菩薩が祀られている。
賢治が初めて「剣舞」を見たのは、この神社の小さな境内だった。その後、彼は各地でいくつもの「剣舞」を見たのだが、それらの経験を、一番最初に出会った場所の名前に代表させて、詩「原体剣舞連」は書かれたものと思われる。この作品のメモには、大正11(1922)年8月31日に作られたと記されているから、原体村での出会いから5年後のことである。
わたしはあるとき、人首町を出て、夕暮れに賢治が大山祇神社に歩いて向かう道を探したことがあった。もちろんそのとき、神社の境内で剣舞は行われていなかったのだが、神社まではまっすぐに続いた農道で、かなりの距離があった。遠くにかがり火が見え、そこから「ダーダー、スコ、ダーダー」の音が聴こえてきたとしたら! それは幻聴のようにわたしを奮い立たせた。歩いていく時間のなかで、未知の原始的な宗教空間が沸騰し出した。音や声は、剣舞の踊りを通して、賢治に一つの命題を獲得させたに違いない。この詩の最後の部分に、「打つも果てるも火花のいのち」、「打つも果てるもひとつのいのち」とあって、人間の生命は宇宙のなかで「火花」のように一瞬であることを讃えようとしたのである。