ロシアによるウクライナ侵攻から1年(1/2ページ)
清泉女子大准教授 井上まどか氏
ロシアによるウクライナ侵攻から1年たった。すでに報道されているように、ロシア正教会のキリル総主教は「西側」の精神的価値を否定し、軍事侵攻は防衛のための闘いであると強調している。正教会が2000年に発表した公式見解では国家のために命を落とした聖人を称揚し、正当防衛のための戦いであれば許容されるとして、自己犠牲の精神を説いている。
今日のロシア連邦は、190もの民族が暮らす多民族国家であるが、世論調査では6割以上の人びとが「正教」の信者、つまりビザンツ帝国由来のキリスト教を信仰すると回答している。
キリル総主教の発言に代表されるようなロシア正教会の姿勢に賛同しない司祭や助祭は少なくない。軍事侵攻から間もなく「ロシア正教会の司祭たちによる和解と戦争終結のためのアピール」と題された公開書簡が発表された。この書簡は「ロシアとウクライナを問わず、すべての兵士が無傷で故郷と家族のもとに帰れること」を願い、平和と戦争終結の呼び掛けが「法律違反とみなされることがあってはならない」として「戦争をやめよう」という端的な言葉で締めくくられている。23年2月時点で293人の司祭や助祭が署名している。
チェリャビンスクの教区司祭のニコライ・プラトーノフ神父は署名者の一人で、ユーチューブにキリル総主教およびプーチン大統領を批判する動画を投稿した後に教区司祭の辞任を申し出た。彼によれば、ロシア正教会の司祭が「真実」を話し始めると、麻薬中毒者といったレッテルを貼られて教会を追い出されてしまうという。
他の署名者のうち、リャザンのセルゲイ・チトコフ長司祭は「健康上の理由」で自ら辞任を申し出た。セルゲイ神父はVKontakte(ロシア最大のSNS)で戦争やプーチンを批判する他の人の投稿を再投稿していたが、それらについて、府主教から説明を求められていた。このようにして、正教会の聖職から離れていく人びとがいる。
また、罰金を科されたり、拘留されたりする聖職者もいる。公開書簡の署名者であるコストロマのイオアン・ブルディン司祭は「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉を強調して侵攻を非難したとして、新しい法律により3万5千㍔の罰金が科された。在外ロシア正教会の修道司祭であるイオアン・クルモヤロフ神父もまた起訴され、22年6月初旬から刑務所に拘留されている。このような状況下、正教界の著名な言論人のアンドレイ・クラーエフ神父は、リベラル紙として知られる『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙のインタビューに応えて、教会の高位聖職者たちの発言に惑わされず、個人の良心を大事にするよう読者に訴えている(22年2月25日付)。クラーエフ神父はモスクワ国立大学やモスクワ神学アカデミーで教鞭をとり、正教会の高位勲章を授与され、数多の著作の総発行部数が150万部にのぼるという影響力ある神父であるが、教会に対して歯に衣着せぬ発言も少なくなく、14年にはモスクワ神学アカデミーの教授職を解任され、20年には聖職をはく奪された。
他の宗教・宗派の宗教者たちがロシアから脱出し、国外から発信するケースもみられる。31歳という最年少でロシアの福音ルーテル派のトップとなり、22年まで同派を率いてきたディートリッヒ・ブラウアー大司教は、軍事侵攻開始後、大統領府から侵攻を支持・賛成する発言をするよう明確な要請があったと語っている。教会の説教で平和について言及した後、ブラウアー大司教はロシア国外へ脱出した。
また、仏教界ではカルムィクの最高ラマ、テロ・トゥルク・リンポチェ(エルドニ・オンバディコフ)がウクライナ支持を明らかにした後、22年秋にモンゴルに移住した。23年1月には、ロシア司法省が彼を事実上のスパイを意味する「外国の代理人」に指定し、カルムィクの最高ラマの職の辞任を余儀なくされた。司法省によれば、彼がカルムィク移民として米国で出生し、米国市民権を持っていたことも指定理由になった。