師子と狛犬(2/2ページ)
和歌山県立博物館長 伊東史朗氏
師子に対するものをなぜ「狛犬」と呼んだかという問題が残っている。
まず師子狛犬一対の成立から考えてみよう。百獣の王とされるライオンはその力強さゆえに、西アジアでは神格化や帝王のシンボルとなり、守護獣ともされた。インドではライオンはブッダを象徴するものとして、アショーカ王柱頭のライオンなどがあり、また仏教経典にも、ブッダを「人中師子」その説法を「師子吼」といい、ブッダの座所を「師子座」といった。ブッダの座所という意味の「師子座」を拡大解釈し、仏像の台座両端に師子一対を配してブッダの座所のシンボルとし、あわせて守護獣としての性格をもたせた。この「師子」一対が、やがて「師子狛犬」となる遠い起源である。
台座両端に配された師子一対は、仏法東漸とともに中国へもたらされる。ところが中国では、古くから陵墓に空想上の霊獣一対を置く風習があった。俑(墓中に副葬される明器)である。ここに、インド伝来の師子一対と中国に伝統的にあった鎮墓獣一対が出会うことになり、ここに二種類の守護獣が出現したのである。
この二種が飛鳥時代の日本にやって来た。二種が併存していたことを示すよい例が、法隆寺の旧金堂壁画(白鳳時代)で、第一号壁画(釈迦浄土)に描かれるのは阿吽の師子一対、いっぽう第十号壁画(薬師浄土)では、向かって右方がうしろを振り返って大口を開け、左方がのっぺりした顔つきで、長い舌を出す爬虫類(カメレオンのような)みたいな動物である。第一号壁画のような師子一対が奈良時代までの守護獣の主流であり、いっぽう第十号壁画にあった別種の獣一対が、平安時代には師子と別の獣の組みあわせになり、別の獣が狛犬と呼ばれるようになった。
師子一対と師子狛犬の彫像の古例が近年あいついで紹介された。師子一対としては、右に述べた法隆寺壁画や玉虫厨子の壁画などが知られていたが、岡山県・高野神社の師子一対は、両前足を踏ん張る左右対称形が新羅時代に起源をもつらしく、技法上から見ても木造の上に乾漆を薄く塗り、眉や両頬などはかなり厚めに盛るという木心乾漆造である。そのような作風と技法により、奈良時代から平安時代前期の作が想定されるに至っている。
いっぽう師子狛犬と呼ばれるようになった当初の実例もまた確認されている。京都の東寺に伝来したもので、弘法大師空海の構想になるその講堂の密教群像の前に置かれていたと考えられ、守護獣らしいオーソドックスな姿の師子に対して、狛犬は師子より丈高く、頭上に角が生え、不明瞭な顔の表情はそうとう異様である。平安時代前期、師子狛犬の成立した時期のものである。
その後平安時代後期になると、師子狛犬は阿吽の違いを除いて、形姿・大きさともに均一的になり、狛犬の頭上にある角が鎮墓獣に由来することを示すほとんど唯一のメルクマールとして残った。