伊豆修験と伊豆峯の考古学(2/2ページ)
國學院大准教授 深澤太郎氏
江戸期の伊豆修験は、行者堂を拠点にして走湯権現の祭祀に参画しており、その代表的な年中行事の一つが、12月15日から翌正月28日にかけて、伊豆半島の縁辺を東回りに一周しつつ、定められた拝所を巡拝する「伊豆峯」の「辺路」修行であった。詳細は、約260カ所になる拝所の所在などを記録した入峰の覚書である『伊豆峯次第』に詳しい。この修行は、『走湯権現当峯辺路本縁起集』の存在が示しているように、13世紀末頃までに原型が成立していた。しかし、『伊豆峯次第』が編まれるまでの時間幅は、500年もの長きに及び、その間における伝承・伝統の変化も容易に想定されよう。
そこで注目されるのが、12月25日に巡る拝所の一つと『伊豆峯次第』に見える心檀堂之岩屋である。これは、下田市三穂ヶ崎に所在する修験窟であり、弘法大師が護摩修行した地ともされるが、その壁面に中世まで遡る墨書が残されており、既に15世紀段階には、12月25日前後に同所で修行が行われたことと、訪問者の人数が4人、乃至5人であったことが知られる。これらの事実は、江戸期における辺路修行の原型と、役行者とともに巡るという考え方「同行五人」の伝統が、既に15世紀の時点で整っていたことを示している。要するに、中世以来の伝統が近世まで受け継がれている伊豆修験の展開過程については、考古学的実態から文字資料の乏しさを補うことができるのだ。
わたしたちは、このような観点から『伊豆峯次第』に記載された拝所約260カ所の現在地比定と考古学的現地踏査、及び関連伝世文化財の集成を行った。ここで詳細を述べてゆく余裕はないが、伊豆峯における拝所の中でも、神社化した古墳時代以来の「聖地」や、山中の「山林寺院」、経塚などを伴って多くの人々が参詣する「霊場」、修験窟のような「行場」の出現と展開に注目して、走湯山信仰と、伊豆修験の動向を5段階に区分して概観しておこう。
第1段階の走湯山草創期は、伊豆峯拝所の前身となる古墳時代以来の「聖地」や、伊豆修験の中心を担うことになる走湯山の「山林寺院」などが、個別に展開していった9世紀から10世紀頃である。
第2段階の霊場形成期には、走湯信仰や三嶋信仰といった在地信仰の核となる祭祀空間において明確な祭祀行為の痕跡が認められる11世紀から、半島各地に経塚を伴う「霊場」が形成され、神社等においても和鏡の奉納が顕著に見られる13世紀頃を充てたい。この時期に、現在の伊豆山神社境内域も整備され、背後に伊豆山経塚ができた。大和吉野から紀伊熊野を縦走する大峯奥駈道では、始点・終点にあたる吉野金峯山頂の金峯山経塚と、熊野本宮付近の備崎経塚が造営されたが、伊豆半島を巡る縁辺にも、多数の経塚が設けられたのである。
第3段階の伊豆峯展開期は、修験者の行場と見られる海蝕洞穴などに考古資料が認められるようになった14世紀から、「伊豆峯」を役行者の足跡とみなす信仰が定着した15世紀を経て、それまでに形成されてきた聖地や霊場を拝所として巡拝し、半島を一周する伊豆峯辺路行が定型化していった16世紀前後を中心とする。
第4段階の伊豆峯変容期は、具体的な考古資料に乏しいが、行場における修行より、拝所の巡拝に重きが置かれるようになったとみられる17世紀以降である。第5段階の伊豆峯廃絶期は、慶応4・明治元(1868)年の神仏判然令を受けて、走湯山の一山組織が解体されるとともに、修験も消滅した明治初年以降である。四国遍路などとは異なり、民衆に開かれていなかった伊豆峯辺路は、修験の廃止とともに担い手を失った。
このように、9世紀頃から整備が進んだ走湯権現を中心に、古墳時代以来の「聖地」を前身とする神社や、11世紀から13世紀にかけて形成された「霊場」が伊豆峯辺路の主要な拝所となり、14世紀頃から修験窟などの「行場」が整備されるに及んで、伊豆修験が確立していく。これら由来が異なる数々の聖地・霊場を、伊豆峯という一つの世界に結んだ媒介は、『続日本紀』に伊豆へ配流されたとの記録を残す役行者の存在である。
その信仰は、神仏分離で失われたかに見えるが、新たに確認された円光院資料によれば、伊豆山神社禰宜となった円光院のように、自坊を居宅として本尊不動明王を祀り続けた旧修験もいたことが明らかとなった。そして、旧行者堂の役行者像も、足立権現として伊豆山神社境内に祀られている。伊豆峯の修行こそ絶えたものの、走湯権現の信仰は、形を変えつつ今日まで受け継がれているのである。