伊豆修験と伊豆峯の考古学(1/2ページ)
國學院大准教授 深澤太郎氏
相模灘を望む静岡県熱海市伊豆山の浜には、走湯と呼ばれる温泉が湧き出ている。『伊呂波字類抄』『走湯権現当峯辺路本縁起集』などの記述を総合的に解釈すれば、甲斐の賢安が9世紀中頃に観世音菩薩を祀ったものとみられるが、その信仰の中核に存したのは、この走湯の霊場であったに違いない。一方、鎌倉時代後期の14世紀初頭までに成立したと考えられている『走湯山縁起』では、今の神奈川県大磯に出現した円鏡が、伊豆山に連なる日金山に飛来して走湯権現の由来となったと説かれるなど、次第に新たな教説も編まれていった。
この走湯権現は、源頼朝以来、武家による崇敬の対象となり、北条氏・足利氏・後北条氏ら、歴代有力者の庇護を受けてゆく。また、当初は、天台・真言の両派が影響を及ぼしていたが、次第に真言系が優勢となり、中世を通して主に真言僧が別当密厳院の院主を務めた。その後、豊臣秀吉の小田原攻めによる影響で荒廃したものの、徳川家康の支援による復興を遂げ、高野山系の般若院が別当となって幕末に及ぶ。そして、維新期の神仏判然令を受けて別当般若院から独立した走湯権現は、伊豆山神社となって今日に至っている。
このような走湯山に興った伊豆修験については、残念ながら殆ど文献資料が残されていない。僅かに、伊豆半島の縁辺である「伊豆峯」辺路を巡る修行について、その由来を説いた14世紀頃の『走湯権現当峯辺路本縁起集』や、18世紀段階の拝所約260カ所を列挙した『伊豆峯次第』、そして江戸期における修験七坊の首座であった円光院が別当般若院に提出した19世紀の『修験古実書上』などが知られるばかりである。
従って、伊豆修験の展開過程については、不明の点が多々残されているが、藤原明衡が著した『新猿楽記』によれば、少なくとも10世紀中頃までに、「走湯」が熊野・金峰をはじめとする「山臥修行」の道場とみなされるようになっていた。12世紀後半に後白河院が編んだ『梁塵秘抄』も、「走湯」を富士・戸隠・伯耆大山などと並ぶ「霊験所」としている。そして、14世紀初頭の『走湯権現当峯辺路本縁起集』には、走湯権現と「伊豆峯」の辺路を開いた行者たち、すなわち藍達聖人・金地聖人・役行者・賢安らの物語が描かれた。
ちなみに、12世紀に駿河南口の村山を拠点に富士山を開いた末代や、甲斐北口2合目の御室に日本武尊像・女神像を残した覚実・覚台らは、いずれも走湯山の僧である。また、少なくとも15世紀段階までは、富士村山修験の中核を担うことになる村山も走湯山領とされており、本来走湯山と富士山が一体的な関係にあったことが窺われよう。
実際、『走湯権現当峯辺路本縁起集』では、「伊豆峯」の中心を「浅間之頂」とし、その東西を金胎両部に当たるとみなしている。かたや、伊豆修験と富士村山修験が分離した後の『修験古実書上』では、伊豆峯を胎蔵界中台八葉院とみなすなど、宗教的空間認識の変容過程も興味深い。
ところで、江戸時代の真言系修験は、当山派法頭の醍醐寺三宝院支配となることを通例とする。しかし、中世から「伊豆方」と呼ばれる教学を生み出していたという走湯山では、修験も「伊豆派」を名乗って別当般若院のみの支配を受け、独自の歩みを辿った。実際、伊豆修験は、江戸期に至るまで正月行事として法華懺法を行い、「伊豆峯」も法華八講にちなんだ「八講峯」の別称をもつ。真言系が支配的となった走湯山において、これら天台系法華信仰の流れを汲む行事が脈々と伝わっている様は、「伊豆派」修験の伝統と独自性を示すものであろうか。